2008年01月04日・01月11日 1017号

【どうみる日本の「学力低下」 / 競争と学力テストで知性は育たぬ / 機会均等の保障こそ必要】

 経済協力開発機構(OECD)が2006年に行った国際学習到達度調査(PISA)の結果が先日公表された。マスメディアは日本の子どもたちの「学力低下」に歯止めがかかっていないと嘆き、文部科学省は学校現場に「学力向上」を競わせる動きを強化しようとしている。しかし「競争が学力を伸ばす」というのは幻想にすぎない。PISA結果はむしろ、競争と格差の教育が真の知性や創造力の育成に有害なことを示している。


学習意欲も最低

 「学力続落不安 / 科学への関心、日本最低」(12/5朝日)、「日本、全分野で順位後退 / 数学10位 理数離れ深刻」(同・産経)−−12月5日付の新聞各紙は06年版PISA結果を「学力低下」の証明として大々的に報じた。

 たしかにテスト結果を見る限り、日本の子どもたちの学力は低落傾向にある。「科学的応用力」の分野では、日本は531点で上位グループにはいるものの、順位は前回調査(03年)の2位から6位に下がった。「数学的応用力」は前々回1位だったのが、前回6位、今回10位と下がり続けている。両分野とも日本は成績上位の国と比べると、理解度の低い層の多さが目立ち、学力格差の拡大を裏付けたかたちとなった。

 テストの成績以上に深刻といえるのが、学習に対する意欲や関心の低さだ。「科学に対する意欲や関心」のアンケート調査をみると、いくつかの項目で最下位を記録するなど、日本の高校生(15歳)は参加57か国・地域の中で最低のレベルであった。

 こうした結果について、マスメディアは「このままでは、世界の中の日本の地位低下にもつながるだろう」(12/5日経・社説)と危機感を煽っている。「読解力」の低下が騒がれた前回のPISAは、全国学力テストを復活させるきっかけとして使われた。そして政府・文部科学省は今回もまた、「学力低下」批判に応える形で競争型教育を推進しようとしている。

 すでに文部科学省は、主要教科の授業時間数を1割増やす方向で動いている。政府の教育再生会議も全国の知事や教育長が参加する「全国学力向上サミット」の開催をぶちあげた(第3次報告)。この報告は学校選択制とリンクした学校運営費の傾斜配分も提言している。つまり、教育に市場原理を導入し、学校や子どもたちを競わせることが、政府・文科省の「学力向上」プランなのだ。

学力向上の鍵は公平

 では、「競争による学力向上」が正しい実態分析から導き出される政策なのかというと、そうではない。日本政府はPISA結果をつまみぐいし、競争・切り捨て教育の正当化に使っているだけなのだ。このことを見抜けず、「学力向上のバスに乗り遅れるな」と吹聴している連中(教育委員会の指導主事や現場の校長に多い)は、それこそ読解力が低下していると言わざるを得ない。

 PISAは世間一般の学力テストとは違い、知識をどれくらい覚えているかではなく、知識を使った応用力や思考力、創造性を測ろうとしていることに特徴がある。主催者のOECDは未来の担い手にそうした学力を求めている。

 実は、06年版のPISA結果が公表された12月4日、OECDのアンヘル・グリア事務総長が東京で講演している。彼は、「科学的応用力」の分野で苦戦し、学習意欲や関心も低い日本の子どもたちの傾向に言及し、こう指摘した。

 「生徒がたんに科学的知識を記憶し、その知識とスキルを再現することを学習しているのだとすれば、多くの国の労働力市場からすでに消えつつある種類の仕事に適した人材の育成を主に行っているというリスクを冒していることになる」。欧州の産業界からみて日本の教育は時代に逆行しているように映る、ということであろう。

 さらにグリア事務総長は、PISA分析からみえてくるものとして、国の教育支出が学力に及ぼす影響について論じている。いわく「支出は重要だが、それだけでは教育水準の引き上げには不十分だ。支出と同様に重要となるのは、教育資源がどれだけ公平に配分・投資されているかということである」。要するに、教育の機会均等を実現することが学力向上の鍵を握っているというのである。

 また、教育課程の早い段階で生徒を選別しても明確な効果はないことが各国の分析からわかるという。逆に、生徒のコース分けを1年遅らせたポーランドは、今回のPISAで学力格差が縮小し、平均得点を大きく伸ばした。しかも、成績下位層の底上げだけではなく、上位層を増やすことにも成功したというのだ。

貧困な日本の教育

 教育格差をなくし、すべての子どもたちに平等の機会を与えることが、その国の学力水準を引き上げる−−PISA分析から導き出される結論は、競争・選別主義に貫かれた日本の「教育改革」の方向性とは正反対のものだ。

 実際、今回のPISAでも「学力世界一」を維持したフィンランドは、教育制度によって教育の機会均等を保障した国として知られている。フィンランドでは、すべての学校を通じて授業料は無料、義務教育段階では教材や学用品も支給される。子どもたちが自分のペースで学べるように、テストで競争させることはない。国民間の差が少なく、全体的に高い水準の学力はこうした制度の下で生まれた。

 日本はどうだろう。学校教育費の対GDP(国内総生産)比をみると、公的支出の割合がOECD諸国の中で最も低く、私費負担が大きい(表参照)。08年度予算の査定では、教職員約7千人の増員要求に財務省が猛反発し、千人の純増に削られるという一幕があった。

 教育への公的支出が乏しく、経済格差が学力格差に直結する制度の下で、子どもが競争を強いられている−−これが日本の現実だ。

全国学テは不要

 財政面からみれば明らかなように、日本の支配層は公教育にカネをかけるのは無駄だと考えている。彼らにとって子どもたちの大半は将来の「使い捨て労働力」にすぎないからだ。「大衆に創造性や物事を多角的にとらえる思考力はいらない。国家・企業エリートが決めたことに黙って従えばいい」というわけだ。

 しかし、一種の愚民政策的な教育政策は世界の潮流に反している。競争と切り捨ての教育は、学力向上どころか日本社会全体の衰退をもたらすだろう。子どもにとって必要なのは、全国学力テストや学校選択制ではない。すべての子どもたちに平等な教育システムを国や自治体の責任で築いていくことである。(M)

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