2008年05月09日発行
1034号
【シネマ観客席/靖国 YASUKUNI/李纓監督 2007年 日本・中国 123分/ありのままの戦争神社】
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上映中止騒動で注目の映画『靖国 YASUKUNI』が5月3日より順次全国公開される。自民党の一部国会議員から「政治的に偏向している」と攻撃され
た本作品だが、実際には、作り手の主張を直接語るのではなく、観客に判断をゆだねるドキュメンタリーに仕上がっている。映画は靖国神社の何を映し出したの
か。
閉ざされた空間
吸血鬼ドラキュラは太陽の光を浴びると死んでしまう。その姿を白日の下にさらされることが一番のダメージになるのだ。そうした意図が李纓(リ・イン)監
督にあったかどうかはわからないが、映画『靖国』は靖国神社のありのままを提示することに徹している。ナレーションは使用されず、説明の字幕も最小限に抑
えられている。
それでも8月15日の靖国神社が異様な空間であることは、映像から十分伝わってくる。旧日本軍の軍服に身を包み「天皇陛下万歳」と叫ぶ人々。進軍ラッパ
を響かせ境内をかっ歩する一団等々。軍人コスプレショーとしか言いようがない光景は、怖いというより滑稽である。
しかしこの閉ざされた空間は、“異物”に対しては凶暴性をむき出しにする。たとえば、肉親の無断合祀に抗議し、取り消しを求める遺族(韓国や台湾の遺族
もいる)に対する靖国神社の態度だ。遺族の必死の訴えに神社側は耳を貸さず、冷たく追い払う。
また、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に抗議した青年は、右翼から袋叩きにされ、暴行の被害者なのにパトカーで連行される。この青年は日本人なのだが、
「中国に帰れ」という罵声を何十回も浴びせられていた。その一部始終をカメラは克明に記録している。
「靖国参拝に文句をつける奴は日本人じゃない。中国人だ」という単純かつすさまじい排外主義。本当に21世紀の日本なのかと思われる人もいるだろうが、
これが靖国神社の現実である。靖国神社を10年以上記録し続けてきた李纓監督によれば、こうした排外主義的ナショナリズムは、小泉参拝以降急激に強まって
きたものだという。
李纓監督は日本に住んで19年という中国人。彼には『靖国』を撮る契機となった体験がある。来日した両親を靖国神社に連れて行った際のことだ。着物姿の
女性が「満洲へ行こう、支那に行こう」という軍歌を歌っている光景を目撃し、父親はショックのあまり倒れてしまったそうだ。
世界の視線に背中を向けて、ひとりよがりの歴史認識と尊大なナショナリズムを肥大化させている。そうした靖国神社の姿は、戦争国家の道を再び歩みだした
現在の日本そのものだ。日本の恥部を暴き出してみせるという意味において、たしかに『靖国』は“国辱映画”だと言えよう。
閉ざされた空間
さて映画は、靖国神社の喧騒と交差する形で、老刀匠が黙々と仕事に打ち込む姿を映し出す。彼が行っているのは、「靖国刀」鋳造の再現だ。実は、靖国神社
の“ご神体”は日本刀である。前線の将校が携帯する軍刀も靖国神社の境内で多数作られていた。老刀匠はかつてその作業に従事し、匠の技を受け継ぐ最後の一
人であった。
職人技から生み出される日本刀は美しい。勤勉を美徳とする精神と高い技術の結晶と言える。とはいえ、刀の本質は人を殺すための武器にすぎない。人殺しの
道具を靖国神社は日本人の魂=神として崇めているのである。
「刀が靖国神社のご神体であることは、戦争が精神と暴力の両輪によって推進されていくという、本質的な部分に一致しています」(『論座』5月号)。「靖
国刀」を本作品のキーワードに据えた理由を監督はこう語っている。日本人の魂が集合され一つの日本刀に宿るというフィクションは「靖国的な運命共同体を象
徴しているように思える」と言うのだ(だから、いったん合祀した者の分離を靖国神社は認めないのだろう)。
軍国主義の装置
研ぎ澄まされた美と武器の恐ろしさを併せ持つ日本刀の両面性に、映画は近代日本の歴史を重ね合わせる。明治以降、国家をあげた近代化政策に成功した日本
は経済的な繁栄を手に入れた。だが、その歩みはアジアからみれば侵略と植民地支配の歴史であった。このことを日本社会はどれだけ自覚しているだろうか。
ラスト10分。記録フィルムの再構成によって、日本の対外戦争と靖国神社の歴史が綴られる。巧みな映像表現は靖国神社がはたしてきた役割を鮮やかに浮か
び上がらせる。靖国神社は追悼の場所などではない。昔も今も、戦死を讃えることで戦争遂行を支える精神的装置なのだ。
右翼の圧力や自粛ムードをはねのけ、本作品の劇場公開が多数決まったことは大変喜ばしい。ぜひ、映画館に足を運び、歴史と向き合う題材にしてほしい。
(O)
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・上映日程は、公式サイトを参照。http://www.yasukuni-movie.com
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