2014年01月24日発行 1314号

【原発被害者訴訟の原告とともに 国・東電に責任をとらせよう(4)京都訴訟原告・堀江みゆきさん】

 昨年9月17日、京都地裁に33世帯91人が集団提訴した。「認めろ、避難の権利 守れ、子どもの未来」のスローガンの下、国と東京電力を相手に損害賠償を求めている。

 原告の堀江みゆきさんは震災当時、両親と高2の次女、中3の次男の5人で福島市内に住んでいた。長女は会津若松市で、長男は東京で働いていた。

初期被曝の後悔

 地震直後の福島市内は家屋の倒壊こそなかったが、道路が陥没しマンホールが隆起。中心部では電気、ガス、水道がストップした。堀江さんの家ではガスと電気は使えたものの水道が出なくなり、井戸水をもらったり川の水をくみに行ったりした。

 1号機が水素爆発を起こした当初は「大丈夫だろう」と漠然と思っていた。その夜、別れた夫と東京にいる息子から「危ない。とにかく福島から逃げろ」と電話があり、とりあえず会津若松の長女のアパートへ子どもと一時避難。しかし、職場の状況と次男の高校の合格発表が気になり、14日に福島市内に戻った。堀江さんは今でも「あのとき福島へ戻らなければ、私たちの初期被曝は違ったのではないか」と後悔することがある。

 14日、自治会館(そこに福島県の災害対策本部もあった)の職場に出勤。報道関係者や自衛隊員が大勢おり、初めて「大変なことが起きている」と感じた。その日から翌日にかけて3、4号機でも爆発が起き、自衛隊員が防塵マスクをつけているのを見て、「私たちは逃げなくていいのか」と不安になった。

エコー検査でのう胞

 福島市の空間放射線量は、15日に1時間当たり約24マイクロシーベルトまで跳ね上がる。当時はそれがどういうことなのかわからず、山下俊一教授がテレビで「放射能は心配ない」と言っていたので安心していた。だがその後、放射能について勉強して知れば知るほど「危険な状況では」と考えるようになる。

 「将来、子どもに何か起きたら、避難せず福島にとどまったことを後悔する。子どもに後悔させたくない」。そう思い、8月に長女、次女、次男と京都市へ避難した。避難を決断するまでは、寝ても覚めても放射能のことで頭がいっぱい。「原発事故が夢だったら」と何度思ったかわからない。

 次女は高校3年に進級したばかり。「絶対に嫌。福島の高校を卒業したい」と言い張っていた。次女に決意させたのは、仲の良かった友達の「自分だったら避難するよ」というひと言だった。息子は希望の高校に入学していたが、理解してくれた。

 避難前、堀江さんにも子どもにも異常な体のだるさと眠気があった。京都に来て1か月ほど経った頃から体が軽くなったのを覚えている。「何かしら放射能の影響があったのでは」と今は思っている。

 福島県の甲状腺検査は場所や日時が指定されていて受けられず、結局親子3人が京都で自費で検査を受けた。血液検査の結果は異常なかったが、エコー検査では皆のう胞があると言われた。

 福島市の実家は線量が低い地域にあるが、それでも事故前の10倍近い値だ。昨年8月、近くの川のイワナから220ベクレルという基準値を超える値が検出され、コメからも微量ながらセシウムが検出された。


避難の正しさ認めさせる

 京都で仕事も見つかり、避難生活にもだいぶ慣れてきた。「避難したことも原発のことも忘れて普通に暮らしたい」と思うことがある。だが、先が見えず地に足がついていない不安が続き、本当に晴れやかな気持ちになることはない。だからといって、自分が戻れば子どもたちを呼び寄せることになるので、故郷に戻るのもためらってしまう。

 自然環境を破壊し、人びとの健康を損ない、故郷を奪った原発事故。強制捜査も行われず、誰も罰せられない。そんなことは許せない。

 「裁判を通して、なぜ原発事故が起きたのか、誰に責任があるのかを明らかにし、避難・移住したことは正しかったと認めさせたい」―堀江さんはそう考えている。

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