2014年02月28日発行 1319号

【原発被害者訴訟の原告とともに 国・東電に責任をとらせよう(9) 避難という選択は正しかった ―いわき市から京都へ・高木久美子さん】

 京都訴訟原告の高木久美子さんは震災当時、いわき市で夫と子ども2人、そして自分の母親の5人で暮らしていた。

子どもと母親を秋田に

 原発事故から3か月後の6月、子ども2人と母親を親戚のいる秋田に避難させた。友達からは「子どもと離れて暮らすなんて信じられない」と言われたが、「地産地消」といって福島の食材を食べさせる学校給食に耐えられなかった。相次ぐ余震で体調を崩していた母親のことも心配だった。高木さんと夫は、住宅ローンもあって、仕事を辞めるわけにはいかず、いわきに残った。

 いわき市は4月に安全宣言し、当時はストロンチウム検査も甲状腺検査も実施しなかった。市民の声を聞く会などで「避難が優先だと思うので、避難に必要な移動資金や避難先での生活資金をなんとかお願いしたい」と訴えても、市は「残っている人たちもいるのに、避難した人だけにそんなことはできない」と答えるだけだった。

大げんかして京都へ

 秋田と福島を往復しながら、ずっと「子どもたちをいつ福島に戻したらいいのだろう」「避難すべきなのだろうか」と考えていた。誰に聞いても答えが出ない。わらにもすがる思いで、ネットで避難・移住の相談をしている人に電話をしてみた。「いわき市は空間線量は下がってきている。でも、土壌汚染は免れないよ」と言われ、その言葉で避難を決意した。

 夫とは大げんかになり、夫の親からも反対されたが、福島で子どもを育てていく自信はなかった。上の娘の卒業を待って京都市へ避難した。

 京都に来て一番うれしかったのは、1年ぶりに洗濯物を青空の下に干せたことだった。心が晴れ晴れとして、「普通の生活が実は大切なことなんだ」と実感した。

「ダンナも寂しいんだ」

 原発事故は国と東電が引き起こしたもので、避難者には何の責任もない。だが、あの事故でしなくてもいい経済的苦労、精神的苦労をみんなが強いられている。しかも「自主避難」者には見舞金程度の経済的支援しかなく、国は知らん顔。高木さんら避難者の月々の暮らしはいっぱいいっぱいだ。住むアパートに家具はほとんどなく、段ボールをタンス代わりに使っている。

 苦しいのは避難してきた母子だけではない。地元に残った夫たちも同じだ。札幌に避難した友人の夫が出張で京都に来た時に会って話した。その人は「妻が子どもを連れて避難してくれたことには感謝している。でも本当はオレは寂しくてしょうがない」と本音をもらした。高木さんは「母子避難している自分たちも大変だけど、一人で残るダンナさんたちは本当に寂しい思いをしてるんだな」と感じたという。

 それでも、子どもの将来のために避難という選択をしたことを後悔はしていない。今は避難先で避難ママや地元の人たちと裁縫会をやっている。人のつながりの大切さがわかり、京都で出会った人のやさしさに感謝している。

福島に残る人のためにも

 高木さんが原告になることを決意したのは、「未来ある子どもたちのために避難したことは正しかったと国や東電に認めさせたい」という思いからだ。自分たちが立ち上がることで世論を動かし、原子力に頼らない、人にやさしいエネルギーへの転換の道を開きたいとの思いもある。

 「この裁判は負けるわけにはいきません。負ければ、また同じことを繰り返すはめになります」。高木さんは、裁判が福島に残っている人びとを守ることにもつながると信じている。

 福島にいる友人からは「復興を手伝うべきだよ。戻ってきな」と言われる。でも、「今は子どもを守ることが母親としての役目」と答えている。将来戻ることになった時は「京都で福島の人たちのことを伝え、みんなでなんとかしようって呼びかけてきたよ」と胸を張って帰るつもりだ。



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