2016年05月27日発行 1429号

【事故6年目の福島(下)/解除2年後の田村市都路再訪/健康不安で若者は帰らない】

奪われた葛尾の自然

 葛尾(かつらお)村原発賠償集団申立推進会の代表・小島力(ちから)さんの自宅は村の中心部・落合地区入口の一軒家。父の代が開拓でやってきて切り開いた山林の一角にある。郵便局に勤め、妻は畑仕事をしながら3人の子どもを育てた。敷地内にある山からの沢水を庭先に引き、溜(た)め池では釣りもできた。木々に囲まれた木製のテーブルの周りでお茶やお酒を嗜(たしな)んだ。子どもたちは都会に出ていったが、それでも休みには家族連れで遊びに来た。

 すべてが汚染された。自宅はネズミのフンだらけ、畑はイノシシに荒らされた。庭先は毎時1・26μSvを示す。「原発事故前は裏山は子どもたちの自然の遊び場、大人の憩いの場だった。もう子どもや孫はここに来ない。事故前の環境に戻してほしい」。小島さんは「ここには子どもの思い出しか残っていない」。悔しそうにポツリと語った。

 葛尾村から浪江町に抜ける道路には「この先帰還困難区域につき通行止め」とあり、ゲート前でUターンさせられる。若い警備員に話しかけると、「放射能教育はパンフレットに基づいて数時間受ける。2交代制で1人7時間勤務です」と言い、身につけたガラスバッジや放射能測定器を見せてくれた。ところが、マスクは市販の使い捨て。小児甲状腺がんが166人に達したが、どう思うか、尋ねた。「怖いですよね。私は子どもがいないが、友人はみんな心配していますよ」と率直な意見が返ってきた。


全面禁漁

 葛尾村が避難指示解除されると、全住民避難地域としては楢葉町(ならはまち)に続く2例目となる。避難指示が最初に解除されたのは、葛尾村に隣接する田村市都路(みやこじ)地区。

 その都路を2年ぶりに訪問した。今もフレコンバッグが山と積まれた「除去土壌保管場所」には「0・24μSv」の標識が立つ。前を流れる川には「全面禁漁」の表示も。解除早々に再開した都路診療所入口のモニタリングポストは、0・12μSvを示した。ガソリンスタンド経営者は「今は作業関連の給油で繁盛。事故前は車を持つ若者が主だったが、今はほとんど見かけない。除染作業が終わったらここも店じまいかな」と苦笑いした。

 地区内に一つある古道(ふるみち)小学校の校庭では、先生と生徒たちがマスクもせず土ぼこりを飛ばしながら運動していた。そこは高さ1mで0・28μSv。教員に子どもたちの帰還状況を聞いたが、人事異動で把握しにくいという。学校給食について「帰還したお母さんが手作り弁当を子どもに持たせるケースはないか」尋ねると、「それは絶対ない。持ち込みに対しては厳しいです」ときっぱり話をさえぎられた。

村には戻れない

 都路地区には5割以上が帰ったとされ、商店も半分は開いている。解除時期に商店が不足したため作られたプレハブの仮設店舗も営業を続けていた。しかし、2年前同様、子どもの姿は見つけにくい。田村市内船引(ふねひき)地区の仮設住宅などから出るスクールバスは2年前と同じく5台並んでいた。

 都路の20km圏内の解除区域ではほとんどの世帯が帰還したという。「でも」と、夫婦で帰った年配の女性が語る。「うちもそうだが、若い人は帰らない。バラバラになってしまった。去年お米も作付けしたが、働き手がいないから商売にならない。病院も商店も生活圏は山一つ越えた大熊町の方と結ばれていたが、帰還困難区域で行けない。遠い船引や三春に行かなくてはならず大変だ。コンビニの移動カーが来るので、そこで買い物している」

 葛尾村の「住民意向調査」(昨年11月実施)によれば、「村に戻らない」「判断がつかない」人たちの理由は、第1に医療環境への不安、次いで放射線量、生活用水の安全性と、健康不安が圧倒的に多い。それでも国と県は放射能安全神話を振りまく。これでは子育て世代が帰ってくるはずもない。

 「復興」「帰還」の宣伝の裏で、若年層がいなくなる限界集落化、被曝の強要が進行している。(Y)



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