2016年12月09日発行 1456号

【非国民がやってきた!(246)ジョン・レノン(9)】

 「平和を売りまくるんだ」。

 ジョン・シンクレアの釈放を勝ち取ったジョンとヨーコは、ヴェトナム戦争反対運動に飛び込みます。

 「戦争は終わった、あなたが望むなら」キャンペーンで世界の注目を集め、「イマジン」、「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」を歌った2人です。

 「石鹸を売ったりソフトドリンクを売ったりというのと同じように、平和を売ってみたらどうだろうと思ったんだよ。それが人びとに平和は実現可能なんだと気付かせることができる、唯一の方法なんだ。戦争は避けられない、暴力は避けられない、なんてことはありえない。あらゆる暴力は避けられるんだよ。ビアフラ戦争はヒトラーのことを知っているぼくたちは、何もしないではいられない。『平和を売ろう』と言っているのは、そういう単純な理由があるからさ。メッセージを書いて、窓に張ればいい。もし平和に賛成し、信じているのなら、自分自身が広告主になればいいのさ。」

 「民衆に力を」、「平和を我らに」をひっさげたジョンとヨーコがニューヨークにやって来たのです。風向きが変わり、時代が変わります。誰もが期待しました。

 ジョンとヨーコを熱烈に歓迎したのは、ヴェトナム反戦、公民権運動、フェミニズムの活動家たちでした。

 1960年代に輝いたアメリカ民衆運動は高揚しつつ停滞の危機を迎えていました。ヴェトナム戦争の本格化に伴って、現地の悲惨な映像が報道されるようになると、1965年頃から各地の大学で「ティーチ・イン」といわれる反戦集会が始まり、1967年頃には全国に広がりました。1968年1月のテト攻勢によって首都サイゴンが攻撃を受けると、世論はヴェトナムからの撤退を主張するようになりました。この時期がヴェトナム反戦運動の最初のピークと言えるでしょう。しかし、ピークは長くは続きません。運動の停滞現象は不可避です。

 公民権運動の指導者マルティン・ルーサー・キングもヴェトナム反戦に乗り出しましたが、その支持に陰りが出始めました。人種差別に反対することとヴェトナム戦争に反対することの間に、キング牧師にとっては必然的なつながりがあったのですが、世論がすぐに理解したわけではありません。ノーベル平和賞受賞のピークから暗殺への暗転を迎えることになりました。公民権運動は分裂の様相を呈します。公民権法改正によって一段落と考える勢力と、より過激なブラック・パワー運動を追求する勢力が拮抗します。

 学生運動も1968年の世界的高揚感を共有しましたが、学園の荒廃もささやかれていました。コロンビア大学、ハーバード大学をはじめ学園は大学の自由とヴェトナム反戦を求める運動の渦中にありました。ジェームズ・クネンのノンフィクション『いちご白書』はその記録です。

 また「カウンター・カルチャー」が喧伝され、多くの若者が新しい文化を模索していました。ヒッピー、ロック、フォーク、マリファナなどの言葉が時代の空気を表しています。

 しかし、若者文化、ポップカルチャーを代表するロック・ムーブメントはオルタモントの惨劇を経て商業主義への道を歩みます。カウンター・カルチャーがメインストリーム・カルチャーに回収されていく過程です。

 それでも、1970年代に入ってヴェトナム反戦に象徴される民衆運動の闘いはまだ熱気を帯びていました。

 活動家たちは、ジョンとヨーコの参入がヴェトナム反戦を盛り上げるための活性剤となると歓迎しました。ジョンとヨーコは「平和を売りまくる」ために広告塔の役割を買って出たのです。
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