2017年01月27日 1462号

【TVの世界/初のヘリコプター「死んでも構わない」!?】

 「浅間山の火口が見えてきました。白い噴煙を上げています」。1983年4月、私は初めてヘリコプターに搭乗してリポートした。私は高いところが苦手でヘリコプターに乗るのは真っ平ご免だったが、ついにその日が来てしまった。当時私はアナウンサーから報道記者に異動したばかりで、実況能力を買われての浅間山噴火のリポートだった。

 取材デスクの指示で芝浦ヘリポートへ行くと、倉庫会社の屋上で小さな4人乗りの報道用ヘリコプターが私を待っていた。カメラマンと解説者の大学教授(地震学)が後席に乗り、私はパイロット隣の助手席に乗った。

 ドアを閉めて乗り込む。ドアの軽いことに驚く。機体は紙でできているの?と疑いたくなるくらい薄い。着席してパイロットから注意事項を聞く。「絶対に私の身体、操縦桿、ペダル、スイッチ、計器類に触れない下さい」。緊張で胸が苦しくなる。リポートするどころではない気分だ。しかし、不思議なもので中継用のマイク付きヘッドフォンを装着すると気持ちが落ち着き、恐怖感は無くなり離陸が待ち遠しくなった。離陸のためエンジンの回転数を上げると、もの凄い騒音だ。搭乗者は互いに接話マイクを使わないと会話できない。

 ビルの屋上からあっという間に離陸すると、空の上に浮いている不思議な気持ちを味わう。浅間山付近の上空には50分で到着する。後席のカメラマンは窓から身を乗り出して撮影を始める。私は眼を凝らして浅間山山頂付近を観察する。幸い晴れで視界は良い。「パイロットさん、もう少し高度を下げてください」カメラマンがリクエストする。私のリポートが始まる。職業意識とは恐ろしいもので、私もカメラマンも良い仕事をしたい一心で高度を下げて噴火口に近づいてほしいと無理な要求をしている。「これが限界です。乱気流があるので危険です」と、パイロットは冷静に拒絶した。

 「だらしない奴だな。命が惜しいのか!もっと降下しろ」大学教授が叫んだ。「危険な飛行はできません」パイロットは毅然として応えた。「私は戦争で死に損なった人間だ。いつ死んでも構わない」「教授、無理を言っては困ります」私がなだめると、「小山田君のリポートOKだから帰ろう」カメラマンが騒ぎを収めた。

 ビルの谷間を縫うように飛んでヘリは無事帰還した。地上に降り立つと疲れがどっと出た。パイロットに挨拶すると、彼はぽつりと言った。「戦中派は嫌ですね。あの時代が良かったと思っているのでしょうか」

(フリージャーナリスト)
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