2017年02月03日 1463号

【異常突出の日本と対照的/台湾でアジア初の全原発廃止】

 台湾の全原発廃止、ベトナムの原発計画中止などアジア諸国が相次いで脱原発に踏み出している。スリーマイル島原発事故(1979年)以降、原発新増設が1基もない米国でも既存原発の廃炉が続く。あらゆる法律も世論も無視して原発再稼働、輸出に突き進む日本と対照的だ。

ベトナムでは、日本とロシアの輸出による初の原発建設計画が2009年に作られ、2014年から着工予定だった。だが、この間に起きた福島原発事故による国民の安全意識の高まりや原発建設コストの増加を理由に昨年11月、国会で正式に中止を決めた。

 米国でもすでに4基の原発が廃炉となり、6基の原発に廃炉計画がある。電力会社が、原発の高コスト化を廃炉理由にしていることが特徴だ。新設も半数以上が中止となった。政府が支援を強化しなければ、今後10年でさらに15〜20基が廃炉になる可能性がある。

 日本政府の「原発は安い」との宣伝は、海外の例を見ても破たんしている。

台湾全土でデモ

 台湾が脱原発を決めるまでには、市民の激しい反原発の闘いがあった。

 福島原発事故が起きたにもかかわらず、国民党の馬英九政権が第4原発の建設を決めたことは台湾市民の怒りを呼んだ。国土が狭く海に囲まれた島国の台湾は、事故が起きた場合の逃げ場も放射性廃棄物の廃棄場所もない。同じような条件の日本で起きた原発事故を、台湾市民は自分たちのこととして捉えたのだ。

 台湾全土で反原発運動は大きな盛り上がりを見せた。原発反対の声は市民だけでなく経営者にも及び、金融機関経営者の呼びかけで「原発を監視する母の会」が作られた。民進党が呼びかけた原発建設停止を求める署名運動も行われた。2013年3月の反原発デモには台湾全土で22万人が参加した。「街宣車よりもベビーカーの数のほうが多かった」といわれるほど多くの市民が参加した巨大デモは馬政権を揺るがした。日本と同様、毎週金曜日の午後6時に人びとが集まり、脱原発を訴える金曜行動も2年間続いた。台風が来ても、金曜行動は休まず続けられた。

政府、資本への怒り

 2013年7月、台湾軍兵士が上官の暴行で死亡する事件が起きた。死亡した兵士の追悼に集まった市民が軍内部の調査を求めた結果、軍が自分で「身内」を裁く軍事裁判を一般司法に転換させる成果を上げた(白シャツ軍運動)。

 中国と台湾との間で締結された「海峡両岸サービス貿易協定」(自由貿易協定)も「台湾市民の生活を破壊する」として怒りを招いた。白シャツ軍運動の中で総統府前に集まった市民に対し、引き続き海峡両岸サービス貿易協定反対の運動を続けることが呼びかけられ、多くの市民がこれに応じた。これらの闘いはやがて一つに合流し、総統府前道路の占拠(オキュパイ)に発展した。

 闘いは、その後の「ヒマワリ学生運動」につながった。2014年3月、学生たちが立法院(国会)を23日にわたって占拠。2016年1月総統選挙で民進党の蔡英文が勝利し政権交代が実現した。新政権はこの1月11日、2025年までの全原発廃止を柱とする電気事業法改正案を成立させた。アジア初の快挙だ。

日本の運動への教訓

 脱原発を国の法律に書き込ませる大きな成果を上げた台湾の反原発運動。日本の運動がくみ取るべき教訓は何か。

 反原発のシングルイシューにとどまらず、政府・グローバル資本への怒りを持つすべての運動を総がかり≠ナ合流させることだ。台湾では、軍での暴行死事件の真相究明、自由貿易協定反対、格差・貧困への怒りと結びつき、25万人の市民が街頭で国の政策の変更を求め意思表示した。

 政治に市民の意見を反映させるよう求める民主主義強化の運動と結んだことも勝利の要因だ。闘いが始まる前の台湾は、与党・国民党が市民の声を聞かず、野党・民進党は政府と対決できなかった。市民の闘いに参加することで野党も鍛えられ、政策変更を勝ち取った。自民党が市民の声を聞かず、野党勢力が自民党と対決する力を容易に持てない日本でも学ぶべきモデルケースだ。市民運動が圧力をかけ、要求を受け入れさせる闘いを作れば、日本でも脱原発は実現できる。

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