2017年10月20日 1498号

【非国民がやってきた!(267) 土人の時代(18)】

 琉球王国を潰して沖縄県として併合した日本は、その過程で琉球分割を検討しました。沖縄が「わが国固有の領土」ではないから、こういうことができるのです。「わが国固有の領土」を自ら分割しようと考えるはずがありません。その後の沖縄への差別政策は言うまでもありませんが、ここでは植民地分割について見ていきましょう。第二次大戦後、琉球はさらに分割されます。

 第1に、琉球は日本から分離されました。アメリカによる軍事占領が行われたからです。1945年3月26日に始まった沖縄戦に際して、米軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ海軍元帥の名で米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)が公布されました。米軍が沖縄本島に上陸した4月1日にも同名の布告が公布され、4月5日、アメリカは読谷村に軍政府を設置しました。ニミッツ布告第1号は、日本政府の行政権を停止し、南西諸島等及びその居住者に関するすべての政治及び管轄権が、占領軍司令官兼軍政府総長であるニミッツに帰属すると宣言するものでした。アメリカは、12月8日には宮古諸島、同月28日には八重山諸島、翌年2月2日には奄美群島・トカラ列島に軍政区域を広げました。

 米軍政は1950年12月15日に琉球列島米国民政府に改組されるまで続きました。

 以上は米軍による軍事占領ですが、これに対して日本側はどう対応したでしょうか。戦争のさなかに一定の条件のもとで軍事占領が行われるのは当然のことと言えるかもしれません。しかし、戦争終結後に軍事占領が継続するのは別の話になります。

 日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、同年9月2日に降伏文書に調印しました。ポツダム宣言第7項は「第6項の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする」としていましたから、日本全土が連合国の占領下に置かれました。

 ところが、沖縄は連合国の占領ではなく、米軍の単独占領下に置かれました。これに対して日本政府は抗議するべきだったはずです。「わが国固有の領土」と考えていたのであれば、政治意思の表明をしておくべきだったはずです。

 ポツダム宣言第8項は「カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない」としていました。

 カイロ宣言は「三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス。右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」としていました。アメリカは領土拡張の念を持っていないこと、及び第一次大戦以後に日本が領有することになった太平洋の諸島を剥奪することが定められていました。沖縄はこれに該当しません。

 さかのぼって1941年8月の大西洋憲章はアメリカ合州国とイギリスの領土拡大意図を否定し、領土変更における関係国の人民の意思の尊重と、政府形態を選択する人民の権利を定めていました。

 それにもかかわらず沖縄の占領が本土と異なる形態で始められ、それが長期にわたって継続したことは、事実上の植民地分割に比すべき事態です。アメリカが軍事力によって行ったことですが、日本政府は抗議することなく、むしろこれに迎合していきました。

 1945年12月17日の衆議院議員選挙法改正によって実施された1946年4月10日の衆議院選挙に際して、沖縄県民の選挙権・被選挙権が停止されました(在日朝鮮人等の選挙権も剥奪されました)。ニミッツ布告第1号によって沖縄について日本政府の行政権が停止したからだと説明されます。しかしニミッツ布告は国際条約・協定ではなく、米軍の内部文書にすぎません。

 沖縄県選出議員の漢那憲和衆院議員は衆議院議員選挙法改正に反対して、「帝国議会に於ける県民の代表を失うことは、其の権利擁護の上からも、又帝国臣民としての誇りと感情の上からも、まことに言語に絶する痛恨事であります」と述べたと言います。しかし本土選出の衆議院議員は誰一人として改正に反対しませんでした。沖縄を分離することに賛成したのです。

<参考文献>
古関彰一『平和憲法の深層』(ちくま新書、2015年)
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