2018年02月23日 1515号

【新・哲学 世間話(1) 田端信弘ポスト・トゥルース(真実―以後)の今】

 「ポスト・トゥルース(真実―以後)」という標語が話題になってから、少したつ。トランプはあいかわらず自分のフェイク(嘘)を棚に上げて、メディアの「フェイク十大ニュース」をツイートしては悦に入っている。

 たしかにこの標語は、トランプの登場抜きにはこれほど広がることはなかったであろう。だが、よく考えると、これは平然と嘘をつき恥じない政治家の姿勢を批判しているだけではない。その背後にある、もっと危険で深刻な時代の風潮に警告を発しているのではないか。

 この標語は、われわれの語る言葉や書く言葉で「真実」と「虚偽」との区別が、たいして重大でなく、どうでもよくなりつつあるとする風潮に向けられている。その区別が「無意味化される」と、行き着くところは「嘘も百回しゃべれば真実になる」というやつである。

 古来、人間世界の価値判断でゆるがせにできない区別は、三つある。「真」と「偽」、「善」と「悪」、「美」と「醜」の区別である。それに反対して、19世紀後半のドイツの反動的哲学者、ニーチェは『善悪の彼岸(ひがん)』を書いた。「彼岸」とは「善悪の区別」を超えたところのことである。彼はこう考えている。人間世界で「善」とされているものは、みな「フェイク」である。「隣人愛」も「人間の平等」も恵まれない人への「善行」も、みな「フェイク」で、社会的「弱者」が自分たちに都合の良いようにでっち上げた「作り話」である。だから、「善」と「悪」のニセの区別などに意味はなく、本当の真実は「善悪の彼岸」にある。

 そしてニーチェは、「善」と「悪」の基準を「快」か「不快」かに変えてしまった。自分に心地よいものが「善」であり、気分が悪いものが「悪」だ、というわけである。自分の発言が事実に反していることを批判されると、メディアに向かって「お前がフェイクだ」と居直るトランプの姿勢は、ニーチェに似ている。都合の悪いもの、不快なものに「フェイク」というレッテルを貼っているのだから。

 「歴史認識問題」や「原発問題」では、歴史的事実や客観的事実を「なかったこと」に、あるいは少なくとも「たいして重大でないこと」に変えようとする策動は依然強い。それゆえ、「何が真実であるかが見えにくい」時代だ、と言われることがある。しかし、「あったことはなかったことにはできない」のである。「真実」と「虚偽」の間に架ける橋はない。

 われわれを「善悪の彼岸」どころか、「真偽の彼岸」に連れ込もうとする風潮は、大規模にかつ意図的につくりだされている。「ポスト・トゥルース」という標語は、そのことに警笛を鳴らしているように思える。

    (筆者は大学教員)
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