2018年03月28日 1520号

【新・哲学世間話(2) 田端信弘 『君たちはどう生きるか』はなぜ売れるのか】

 漫画版『君たちはどう生きるか』の売り上げ数が、発刊1年半で210万部を突破したという。これは驚異的な数字である。出版の世界では、1万部を超えれば大ヒット、10万部を超えればベスト・セラーである。漫画とはいえ、硬い中味のこの本が、今、なぜこんなに売れるのか。それが大きな問題なのである。この点は、さまざまなメディアでも取りざたされている。

 漫画の原作は、80年ほど前、治安維持法で逮捕されていた吉野源三郎(編集者・児童文学者)が釈放後に、若者向けに強いメッセージを込めて書いた教養小説である。主人公、コペル君は(旧制)中学の2年生だ。彼が、まだ若い叔父さんの助言に導かれて、「社会」の見方を深め、自分の「生き方」について考え、成長していく過程が話の筋となっている。随所に、「社会的弱者」にまなざしを向けなければならない、毎日汗水流して働いている労働者が社会を支えているのを忘れてはならない、社会の風潮に流されずどう行動するかを自分自身で決めなければならない、等々のメッセージがちりばめられている。このように、まさに「お堅い」本なのである。

 最初は、「大人」の間で広く読まれ始めたらしい。それが、ネットや最近では学校の教師などを通して、中学生、高校生、若者に拡がっていったようである。「大人」は、自分の人生を振り返りながら多種多様な動機から手にしたのであろう。だが、今、なぜ、若者たちがこの本に興味をもつようになったのか。

 私の知るかぎり、長い間、若者(大学生)の「人生」についての最大の関心事は、少しでも「良い」会社に入り、少しでも「豊かな」生活をすることであった。それは、「どう生きるか」とはまったく質の違う関心である。だが、或る学生が確信を込めて「私たちの世代は、いくら努力しようが、絶対に親の世代の生活水準を超えることは不可能です」と断言したのを聴いたのは、もう10年ほど前のことである。日本の社会は、それ以降10年、ますます若者たちの「人生」にかける「希望」や「願望」を打ち砕いてきた。圧倒的な数の若者が、正社員をめざす就活をはじめその努力にもかかわらず、非正規労働者となることを強いられている。

 多くの若者にとって、「良い」会社、「豊かな」生活について語ることは、もはやリアリティを失っている。そんなことを問題にしても「無意味」なのである。すると、自分の「人生」について、唯一「意味」のある、切実な問いとして迫ってくるのは、「どう生きるか」なのではないか。ベスト・セラーの背景には、社会構造の変化とそれに対応した若者たちの意識の変化があるのではないか。いくらか期待を込めて、そう推測したいと思う。 (筆者は大学教員)
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