2018年06月22日 1531号

【新・哲学世間話(4)田端信広 人生を天皇の代で意味づけますか】

 天皇の退位、代替わりが一年後に迫った。先日の新聞報道では、諸般の事情を考慮して、新しい「元号」の発表は代替わりのひと月前に発表することになったようである。来年の四月には新しい「年号」が決まり、五月からは「平成」とは別の年号になるのである。

 今回は、「元号」のもつ意味について考えてみたい。私たちはあまり深い思いもなく、「昭和○○年生まれ」だとか、「平成○○年入学あるいは卒業」だとか語っている。そのことに大した意味はないと考えている。

 本当にそうなのだろうか。そう語るのは、自分たちの重要な人生の節目や出来事を天皇の「御代(みよ)」によって測り、意味づけていることにならないだろうか。ひいては、それは私たち一人一人の人生を、「天皇の代」によって意味づけていることではないのか。

 そう考えるのは大げさすぎる、「年号」は慣習みたいなものだ、と言う人もいるだろう。そう言う人は、「日の丸」も「君が代」も「慣習」であり、目くじらを立てるほどの「政治的」意味はない、と言うだろう。本当にそうなのか。

 たしかに、現代では、天皇は少なくとも「建前」上は政治に関与しない。天皇による政治的な「国民統合」は憲法上許されていない。だが、天皇はいまだに「国民統合の象徴」なのである。

 「象徴天皇制」による「国民統合」、すなわちソフトな国民支配は、それと気づかれないままに、無意識のうちに、私たちの意識と生活の中に浸透してくる点に基本的特徴がある。代替わりによって「年号」が変わっても、多くの国民が何の疑問ももたず、それを使うこと、自分たちの人生をそれで測るようになること、これは、無意識のうちに私たちのうちに浸透している「象徴天皇」による国民統合の典型的な事例と言えるだろう。

 戦前の天皇制の強大な威力、それと闘うことの困難さを、或る評論家がかつてこう言ったことがある。天皇制の国民支配は、眼に見えないかたちで浸透しているから恐ろしいのだ。「天皇制は、われわれが食べる飯の一粒、一粒にまで浸みこんでいる」

 大昔から、洋の東西を問わず、支配者、為政者は「時」を支配することを通して、人民を支配してきた。だから、彼らは自分の「代」に適した新しい「暦(こよみ)」をつくった。その「暦」に合わせて人民が生活することを強制し、そのことによって人民の生活を支配、コントロールしてきたのである。

 そう考えれば、生活のなかで何気なく「元号」を使うことは、自分たちの生活を「天皇の暦」のもとに置くのを容認していることなのである。それは「象徴天皇制」の支配に屈することを意味するだろう。

(筆者は大学教員)
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