2018年06月29日 1532号

【シネマ観客席/万引き家族/監督・脚本 是枝裕和 2018年 120分/現代日本の貧困を可視化】

 ご存知、カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞作。なぜか賛辞をおくらない安倍首相をおちょくった海外メディアの報道がよほど悔しかったのか、ネトウヨたちが作品にケチをつけまくっている。いわく「日本人は万引きで生計を立てたりしない」「国から補助金をもらって反日映画をつくるな」等々。

 一方、「ネトウヨが毛嫌いするぐらいだから反安倍の映画に違いない」と、思い込みで評価する人もいる。2年前のパルムドール作品『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)の日本版を期待したのだろう。たしかに両作品には、政府に見捨てられた人びとを描くという共通点がある。ただし作品から受ける印象は大きく違う。それはどうしてなのか。

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 高層マンションの谷間に建つ老朽家屋。柴田家6人はここで暮らしている。彼らはホンモノの家族ではない。はみ出し者や捨てられた者たちが寄り添って生きる疑似家族だ。年金目当てに老女(樹木希林)の家に転がり込み、子どもに万引きをさせているのだから、世間からみれば犯罪一家である。実際、ある出来事がきっかけで一家の秘密が露呈したとき、メディアはそう呼んで非難した。彼らがなぜ家族として暮らしていたのか、背景に迫ろうとはしなかった。

 カンヌ映画祭の審査員長が指摘したように、『万引き家族』は「インビジブル・ピープル(見えない人びと)」を描いた作品といえる。では、『わたしは、ダニエル・ブレイク』はどうか。主人公は政府の福祉切り捨て政策の犠牲になった労働者である。彼のような労働者階級の怒りが、欧州の反緊縮運動をけん引していることは明らかだ。つまり、政治的に“見えない存在”ではない。ここが柴田家とは違うところだ。

 『万引き家族』の面々が選挙に行くとは思えない。社会というものを自ら遠ざけている。なぜなら、彼らにとって行政とは、自分たちを厄介者扱いする「上から目線のうざいやつ」でしかなかったからだ。

 柴田家の信代(安藤サクラ)は前夫の暴力に苦しめられてきた。作中では詳しく語られないが、彼女自身、母親に育児放棄されていた。だから、同じ境遇の女児を放っておけなかった。血のつながりは関係ない。自分なりの方法で母親になろうとしたのである。

 そんな信代の胸の内を、取り調べにあたった女性刑事(池脇千鶴)は推し量ろうともしない。「子どもに犯罪をさせるなんて、母親として許せない」という気持ちが態度に表れている。反論しようとするが言葉にならず涙する信代。「どうせ、あんたみたいな人にはわからない」

 『万引き家族』は、わかりやすい新自由主義批判の映画とは言えないだろう。だが、政府がもたらした社会荒廃を自己責任論が隠している現代日本のありようを可視化した作品であることは間違いない。 (O)

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