2018年07月27日 1536号

【新・哲学世間話(5)田端信広 オウム大量死刑のおぞましさとは】

 7月6日、オウム真理教の元教祖麻原彰晃(松本智津夫)をはじめとする教団の元幹部7人に、一斉に死刑執行が実行された。これは、戦後直後にA級戦犯7人が処刑された以来の大量執行である、という。

 このニュースを聞いて、なんともやりきれない陰鬱(いんうつ)な思い、あるいは恐ろしくおぞましいという感情を抱いた人は多い。そのような私たちの感情は、いったいどこからきているのか。

 私は死刑制度そのものに反対である。だが、ここでは死刑そのものの是非について論じるには紙幅が不足している。ここでの問題は、たとえ死刑制度そのものに反対でない人でさえおそらく抱いたであろう、大量執行の異様さに対する、あのおぞましさはどこからきているのか、ということである。

 それは、この同時死刑執行が一種のみせしめ≠ナあったことに由来している。多くの人はそのことを直観したがゆえに、おぞましく恐ろしい感情を抱かざるをえなかったのである。

 では、何に対するみせしめ≠ネのか。それは、単に大量の犠牲者を生みだした凶悪な犯行に対する対応ということだけでは片づけられない。7人もの同時死刑執行は、組織的に国家に逆らい、国家に反逆的行為を犯した犯罪に対するみせしめ≠ネのである。それは、いわば「国家反逆罪」に対する、国家権力の報復的行為という、政治的意味を色濃くもっている。

 多くの人は、このことを直観したはずである。あの感情は、そこに由来している。

 オウム真理教は、単なるオカルト集団、秘教的宗教集団にとどまっていなかった。それは、次第に国家と体制に逆らい、それに取って代わろうとする「政治的」組織という一面をもっていったといえる。その組織の一部が「○○省」や「××庁」と名づけられていたことにもそれが窺(うかが)える。また、地下鉄サリン事件が、国家権力の中枢である霞が関で引き起こされたことも、偶然ではないであろう。

 この大量処刑については、別の「政治的」要因もさまざまに指摘されている。たとえば、「平成」に起こった事件の決着を次の時代に持ち越さないためとか、内閣への批判の矛先をそらすためだとか。

 だが、それらの要因は、今回の事の本質からすれば、副次的なことであろう。どう見ても異様な大量の同時死刑執行は、そんなことではけっして説明がつかない。

 組織的な国家反逆的行為に対する国家権力によるみせしめ=Aこの根本要因ぬきには、かの異様さは説明ができないのである。

   (筆者は大学教員)
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