2019年02月22日 1564号

【新・哲学世間話(8)田端信広/「象徴天皇」の「国民統合」機能】

 4月1日には「新元号」が発表される。そこで、もう一度「象徴天皇制」のはらんでいるいくつかの問題のうち、「象徴天皇」の「国民統合」機能の問題にしぼって考えてみたい。

 現天皇明仁の姿が印象的に国民の意識に根づいているのは、国内外での「戦没者慰霊」の活動と、大災害被災者への「お見舞い」の活動であろう。ここでは前者の問題点には触れず、後者の問題点だけを考えてみよう。

 1991年7月、天皇は雲仙普賢岳爆発の被災者を見舞った。そこで、初めて被災民と天皇の「膝つき」会話スタイルが生みだされた。このスタイルは、それ以降、阪神淡路大震災、新潟中越地震、東北大震災、熊本地震への見舞い等々に引き継がれ、事あるごとに「国難の先頭に立つ天皇」、「弱者に寄り添う天皇」像が広く浸透させてきた。

 メディアを通して流布されてきた、この「弱者に寄り添い、国民とともにある」天皇像こそ、現代的な「国民統合」のもっとも強力な武器なのである。

 日本国憲法第一条は、天皇を「日本国民統合の象徴」と定義している。「国民統合」とは、国民の間にはさまざまな見解の相違や対立があるにしても、やはり「日本国民は一つだ」という意識、国民の一体感を広くつくり出すことである。

 こうした社会的意識の浸透は、当然、国家と国民の内部にある矛盾や対立を薄め、ときにはそれを解消する機能を果たす。

 その一例を挙げよう。12年10月、天皇・皇后は、東北大震災で深刻な放射能汚染を承けた川内村を見舞い、被災民にやさしい言葉をかけた。これを契機に、村民の間に天皇の「慈愛」に応えて「自分たちのことは自分たちでやろう」という雰囲気が生まれた、と或る新聞記事は伝えている。国や東電に不満や文句ばかり言っておらず、自分たちも自分たちなりに頑張ろう、というわけである。こうして、天皇の「慈愛に満ちた」言動は、加害者はだれで、ことの責任はどこにあるのかという意識を、一時的にであれ、フェード・アウトさせてしまう。

 内閣総理大臣も含めて他の誰にも果たせないその役割を、天皇は自覚的、積極的に果たしている。首相とちがって、天皇は「国民の一員」ではなく、「国民」を「超越」している。国民を超えた存在でありながら、国民に「寄り添う」姿が、絶大な「統合」力を発揮するのである。

 現天皇の「個人的」言動に親しみと敬意を抱く国民は多い。彼の憲法擁護姿勢をもっと積極的に評価しようという声さえある。しかし、たとえ仮に彼の「個人的」言動が肯定的に受けとめられようとも、象徴天皇の理不尽な「国民統合」機能、ひいては「天皇制」そのものの非民主的諸問題に眼をつぶるわけにはいかない。両者は分けて考えなければならない。
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