2020年04月03日 1619号

【非国民がやってきた!(327)国民主義の賞味期限(23)】

 佐藤嘉幸と廣瀬純は「資本主義は欲望の次元から掘り崩されなければならない」というドゥルーズ=ガタリの政治哲学が3段階で変遷を遂げたことを確認しました。「反資本主義闘争の主戦場」は階級闘争、公理闘争、政治哲学へと移行し、闘争主体はプロレタリア、マイノリティ、マジョリティへと変遷しました。

 3段階の変遷ばかり強調するとドゥルーズ=ガタリの政治哲学の大きな筋を読み違えることになります。佐藤と廣瀬によると、彼らが構想する戦略は一貫しています。『アンチ・オイディプス』で階級外の主体集団の形成とされているのは、『千のプラトー』では万人によるマイノリティ性への生成変化とされ、『哲学とは何か』では絶対的な内在的脱領土化とされています。ブルジョワジーとの闘い、マジョリティとの闘い、そして「人間」との闘いは、文脈により、具体的な戦術の位置づけにより、表現が異なりますが、その実体は「資本主義的かつ民主主義的な主体」です。

 こうした変遷の背景は時代状況にあります。1970年代は労働者とその前衛党という古典的な運動形態が存在すると同時に、学生、女性、移民、不安定労働者、LGBT、少数民族といった新たな闘争主体が登場していました。1980年代後半にはレーニン的切断の有効性が葬り去られた状況で、NGOが登場してきました。社会運動がNGOへと発展していきました。こうした状況を踏まえてドゥルーズ=ガタリは、利害(前意識的備給)から欲望(無意識的備給)へ、マクロ政治からミクロ政治へ、そして歴史から生成変化への途を歩むことになりました。

 これは無関係で偶然的な変遷ではなく、「プロレタリア階級闘争なしに分裂者主体集団の形成はなく、マイノリティ公理闘争なしにマイノリティ性への生成変化はなく、現在的形式での哲学の再領土化なしに未来的形式での再領土化はない」という関係にあります。

 『哲学とは何か』は、現在的形式としての万人の人間化と、未来的形式としての万人による動物性への生成変化という2つのユートピアが対比されています。ドゥルーズ=ガタリは、未来的形式のユートピアの上に哲学を再領土化させようとしました。ここで重要なのは利害と欲望の分裂分析でした。

 「なぜ人々は自らの利害に反することを欲望するのか」――この問いを常に発し続けなければなりません。「常にさらなる人間化への欲望は、利害に従属した欲望であり、この従属関係が逆転されるときにこそ、動物性への生成変化の無限過程は始まる」からです。

 しかし、佐藤と廣瀬はここで立ち止まりません。『哲学とは何か』が出版されたのは1991年です。それから長い歳月を経ました。『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』を経て『哲学とは何か』に至る運動と思索の旅は約20年の歳月をかけました。

 他方、『哲学とは何か』から佐藤と廣瀬の『三つの革命』まで四半世紀の歳月が流れました。世界史は新たな段階に突入しているかもしれません。今日でもドゥルーズ=ガタリの紹介や入門編が何冊も出版されています。彼らの思想の詳細な研究も深められています。

 しかし、第1に、佐藤と廣瀬のように3段階の変遷を跡付ける試みは見られません。ドゥルーズ=ガタリの不変の一つの思想が概説されるきらいがあります。

 第2に、ドゥルーズ=ガタリの思想の内在的分析は多く見られますが、彼らの思想を鍛える試みはどれだけあるでしょうか。

 ドゥルーズ=ガタリのいない現在、彼らの政治哲学を引き継ぐためには、彼らの戦術を繰り返し唱えるだけでは足りません。「ドゥルーズ=ガタリ主義者」にとって必要なことは、彼らにおいて不変であり一貫した戦略、つまり分裂分析を引き継ぐことでなくてはなりません。現在の運動の下に分裂分析を置くことで、新たな戦術を提示することが課題となります。佐藤と廣瀬は自らの頭脳でこの課題に挑もうとします。
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