2005年12月23日発行917号

解剖 自民新憲法案 (1)【前文】

【一切の正当性なき国家改造 / 国民を国家の下に組み伏せる】

あらゆる立場から「新憲法ノー」を
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 自民党は11月28日、結党50周年大会で「新憲法草案」(以下、草案)を決定しました。草案は、グローバル資本の権益追及のための国家改造を目指したものです。「9条守れ」だけの運動では対抗できません。草案の目的が「全面的国家改造」にある以上、すべての人びとが手をつないだ全面的な反撃が必要です。今号よりシリーズで草案による国家改造の狙いを明らかにしていきます。第1回は憲法前文について。


 草案は、端的に言えば、「国民に仕える国家」から「国家に仕える国民」へと主従関係を逆転し、「国益」=グローバル資本の権益確保のために国民を統合しようというものです。

 草案の前文がそのことを表しています。前文は、マスコミで言われている「無味乾燥な要約的しろもの」ではありません。自民新憲法草案の各条文がどのような理念・価値観によって立つのかを示した根っこの部分です。現憲法の根本原理を否定する草案の狙いのエッセンスが詰まっているのです。

国民主権を空洞化

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「象徴天皇制は、これを維持する。また、国民主権と民主主義・自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、普遍の価値として継承する」(草案)

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 草案前文は「国民主権」を空洞化しようとしています。

 まず「象徴天皇制は、これを維持する」としています。そもそも国民主権原理と大きく矛盾し、現行憲法前文には全く記述のない天皇制の規定をあえて最初の部分に持ってくるところに、国民主権軽視の姿勢が見て取れます。

 さらに重要なことは、国民主権・民主主義の内実を抹消していることです。

 現行憲法前文は、国民主権について「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と高らかに宣言しています。

 1946年の憲法制定を論議した国会では、この部分について「国政とは、国政全般を指している。本来国民が直接すべきものであるが、全国民が1つになってするわけにいかない。だから、議員や役人など特殊な人が法律を作ったりしている。政治を現実にやっている人が、国民全体のためにやっているのであって、自分の心持でやるのではない。国民の総意を国政が引き受けているのだ」と大臣答弁しています。政府・自治体・議会が持つ各種権力(権限)の源は主権者である国民であり、議員等はその代理人にすぎないと言っているのです。

 したがって、例えば03年12月、国民の大半が反対しているにもかかわらず政府が自衛隊のイラク派兵方針を決めたとき、小泉は「世論を見ていれば、政治を誤る」と開き直りましたが、これは「国民主権」無視もはなはだしい行為です。主権とは、4年に1回の選挙の時だけに与えられるものではなく、常にすべての国民が保持するものなのです。大臣・首長・議員などは、常に国民の意思をはかり、その意思に縛られ、その意思に沿うように行動しなければなりません。

 自民党は、この「国民主権の内実」に沿って市民が自ら行動されては都合が悪いのです。だから、草案では「国民主権」の文言だけ入れて、選挙権を持っていることがすなわち主権を持っていることだと錯覚させたいのです。

 では、なぜ自民党にとって都合が悪いのでしょうか。

残るのは国家への義務

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 「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の進行と文化の創造及び地方自治の発展を重視する」(草案)

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 草案前文はこう続きます。

 現行前文の表現によると、主権者である国民が自らのために政治を行うことを国に許し(「国民の厳粛な信託」)、その政治の成果をすべての国民が受け取る(「その福利は国民がこれを享受する」)ことになっています。

 草案では、国はすべての主権者に国政の成果を還元する義務をまぬがれます。国政を「すべての主権者の利益を保証するもの」から「一部の主権者=グローバル資本につながる者たちの利益を保証するもの」にすることが狙いです。

 「社会を自ら支え、福祉の充実を図る」のは国ではなく、主語となっている「日本国民」です。「国民は自立せよ。自分で立っていられないのなら周りの国民に支えてもらえ。それができないのなら勝手に倒れろ」という「自己責任による自助努力」を強要しているのです。その市民が自ら支えなければならない社会とは「自由かつ公正で活力ある社会」=競争原理のみを価値とする弱肉強食の社会です。

 草案が狙っているのは、行政サービスの民営化でコストのかからない「小さな政府」をつくるとともに、資本に新たな儲け口を提供していくことです。市民に国政の成果を還元しないとするならば、国政はどのような成果を誰に提供するのでしょうか。

武力とカネで権益あさる

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「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う」(草案)

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 現行前文では、「日本国民」は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と記されています。前出の46年国会ではこの点について、「軍隊を持たないということを憲法の中に規定した。安全と生存は武器なしには保全できないというわけではない。その手段として、世界の平和愛好諸国民に信頼するということが当然でてくる。世界諸国民の公正と信義に委ねるということは自然のことである」との大臣答弁がなされています。

 現行憲法の認識は「平和を願う諸国民の公正と信義」が、国際社会の平和維持の原動力です。パワーバランスではないからこそ、第9条により交戦権を否定し武力放棄できたのです。

 草案の認識は違います。平和は「正義と秩序」によってもたらされるのです。「正義と秩序」を実行するのは、民衆ではなく「他国」すなわち、為政者との協力です。利潤最優先のグローバル資本の活動にとって、公正や信義という価値観は邪魔でしかありません。「圧制や人権侵害の根絶」の名でイラクを侵略したように、グローバル資本の「正義と秩序」を押し付けるために必要なのが、「勝ち組国家」の野合での力による支配です。その力は軍事力とカネです。だから、第9条を変えて自衛隊を名実ともに「軍隊」にし、ODA(政府開発援助)のばら撒きで他国の支配層を抱きこみ、グローバル資本の権益に結びつけようとしているのです。

 「小さな政府」によってもたらされる「国政の成果」は、軍事力と経済援助として、「国益」=資本による一層大きなぼろもうけとして還元されていくのです。そして、市民は、国防の義務と自己責任による自助努力で「国と社会」を支えさせられるのです。

 まさに市民と国家の主従関係の逆転です。

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 草案は、現行憲法が「普遍の原理」とした「国民主権」を破壊するクーデターというべきものであり、そのような行為はそもそも小泉首相にも国会議員にも許されていません。

 現行前文は「これ(憲法原理)に反する一切の憲法、法令および詔勅を排除する」としています。現行憲法制定時に提出された原案では、排除の対象に憲法は入っていませんでしたが、結局、憲法もその対象に加えられました。したがって、自民党の憲法草案は、国民投票を待つことなく排除されるべきものなのです。

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