2005年12月30日発行918号

【重い扉を開けて 中国再訪(七)】

 人間の記憶というのは不思議なもので、昨日のことでも綺麗さっぱり忘れ果てヽいるのもあるし、そうかというと何十年も前のことでも判然と浮んでくる人や光景がある。案外忘れてならぬことは忘れるし、どうでもいいようなことが忘れられないというのもある。限りある人間の脳の組織だから容量も限度があって当然だ。精々覚えるべきことだけ覚える、で済まそうと思っている。戦争の記憶などは忘れたいのが人情だろうが、といって広島、長崎だけ知ってりやいい、というものではない。

 意識的に被害の記憶だけで済まそうとしても、それで周辺各国の民衆が納得はしない。むしろ、加害者としての我々を進んで正確に知ってもらい、それを謝し、あらためて将来の友好を誓い合うことが出来れば、というのが、私の訪中の目的だった。

 中国の友人たちはその気持をあたたかく受けとめ、協力してくれた。過分の好意である。

 江蘇省金壇県城中山公園の池畔の小亭で、私は涙ぐんでいた。

 胸の中で時間はみるみる逆行していた。今日、マスコミのカメラ、マイク、また物見高い市民たちに囲まれて騒然たる中に立ちすくんでいる私が、いつか六十余年前の静寂の池畔に身を置いていた。小亭の椅子に腰掛けて膝に文庫本を拡げながら、ふと目を上げたその先に、落葉が水面に輪を描いていた。

 当時私は二十六才の若者である。

 隣りに子供の遊び場があって、甲高い叫び声や笑い声が交錯していた。或る日、足許にボールが転がってきた。拾い上げて、追ってきた少年に投げ返した。

 それが縁でいつか片言交りで語り合うようになった。

 高い城壁(今日は崩されて小山のようにされていたが)に並んで腰を下し、眼下に広がる江南の農村を見渡しながら少年は日本への夢を語り、私はそれに応えながら望郷の念に心を熱くしていた。この二人の奇妙な友情がやがて、美しい中国少女の「君、死に給うこと勿れ」の声につながるエピソードへと発展するのだが、池畔の若い私はまだそれに気付いていなかった。

 ただ戦場の一画とは思えない静かな環境の中で一刻の平安を楽しんでいたのを昨日のことのように思い出す。

 驚いたことに、その遊び場がそのままに在って、同じような子供の喚声が聞えてきた。何か時の歯車が止ったように感じた。

 金壇に着いてから案内役を努めて下さったのは範学貴先生と呼ぶ地元の名士の方だった。穏和で親切な人柄で、年来の友人のように終始付合って下さった。

 流石(さすが)大陸の人である。その人に次に案内されたのが意外な場所だった。

 (「わんぱく通信」編集長)

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