2008年04月18日発行 1031号

【茨城 岡山 相次ぐ無差別殺人/希薄な生の意識、深い絶望感/「若者を見殺しにする国」ゆえの犯罪】


   通行人など8人をナイフで殺傷した茨城県土浦市の事件、見知らぬ他人を駅のホームから突き落とし死に至らしめたJR岡山駅の事件…。この春、若者による無 差別殺人事件が相次いだ。2つの事件が「孤独の果ての『自殺願望』」(3/29東京)によるものだったとすれば、そうした絶望感をもたらした社会的背景に 言及する必要がある。


「心の闇」でいいのか

 まずはマスメディアが2つの事件をどう扱ったのかをみていこう。

 茨城の事件は24歳の容疑者が「ニート」「引きこもり」「ゲーマー」であることがクローズアップされた。「アキバ系通り魔」(週刊ポスト4/11号) が、ゲームさながらの殺りくに及んだというわけだ。容疑者の言動をとらえて、「妄想性人格障害」などと決めつける事例も多い。

 「ニート害悪論」も山ほどある。たとえば、「30歳のニートを抱えたらいくら必要か?」と題した日刊ゲンダイの記事(3/27)である。記事は、子ども が働く意思のないニートになった場合の親の金銭負担をシミュレーションし、あげくのはては「ニート問題が怖いのは、子供が引きこもる年数が長引くにつれ… 最悪、殺人事件に発展するケースになる」という“識者”のコメントまで付けている。

 ニートは社会の厄介者、穀(ごく)つぶしの犯罪者予備軍だ、とでも言いたいのだろう。無職青年に対する世の偏見が日刊ゲンダイの記事には凝縮されてい る。

 では、岡山の突き落とし事件はどうか。容疑者である少年(18)の父親が取材に応じていることもあって、マスメディアは少年の成育歴を詳しく報じてい る。

 幼い頃、阪神大震災で被災し、転居先の小・中学校ではいじめを受けた。高校の成績は優秀だったが、「貧乏で進学させるカネがない」と親に告げられ、大学 進学をあきらめた。事件を起こす前日は、ハローワークで就職口を探していたという。こうしたいきさつから、この事件は「将来の展望を失い、悲観した少年の 犯行」とみるべきだろう。

 しかし、捜査当局は「父子間の過剰な密着が、子供の社会不適応状態を引き起こした可能性を示唆する」(4/1毎日)など、事件を家庭環境に起因する「心 の問題」に押し込めようとしている。新聞の見出しも「少年 見えぬ心」(3/27毎日)を強調する。岡山の事件を貧困化・教育格差の問題と結びつけたくな い権力の意図が透けてみえる。

社会的背景こそ問題

 凶行を起こした者の異常性や「心の闇」を強調し、事件の要因を個人の資質に帰してしまう−−一連の報道パターンは、安全確保を口実にした治安体制の強化 など、権力にとって都合のいい結論を導くだけだ。絶望感ゆえの犯行と言うならば、彼らをそのように追い込んだ社会的背景こそ問わねばならない。

 社会学者の山田昌弘は「背景には、進学・就職と人生の早い段階でチャンスを逃すと、激増する非正規雇用に取り込まれて将来への希望も失う、社会の『下方 への流動化』があるのではないか」(3/27朝日)と分析する。状況説明としては間違いではないが、これでは不十分だ。

 報道によると、2つの事件の容疑者は「殺すのは誰でもよかった」「自分を終わりにしたい」などと供述しているという。他者や自分自身の生命をあまりにも 軽んずるこの感覚は、彼ら自身が社会から“殺されている”ことに起因するのではないだろうか。

希望を奪う国家

 山田の言う「激増する非正規雇用」=若者の不安定・低賃金労働は、グローバル資本の儲けのためにこの国の政府が政策的に行ってきたことである。それなの に体制御用メディアや言論人は、働きたくとも働けない、あるいは働くことをあきらめた若者に「ニート」や「引きこもり」というレッテルを貼り、責め続けて きた。「自己責任論」というやつである。

 普段はその存在をなき者にされ、語られるときは社会のお荷物と見下される。そうした抑圧下にある者が「この国に人を殺してはいけないというルールはな い」という考えを抱いても不思議ではない。現に彼らは真っ当な役割すら与えられないまま、社会から抹殺されているのだから。

 もちろん、市民の命を理不尽に奪う凶行は断じて許されない。社会への復讐的な意図があったとしても、“自爆テロ”では世の中は変わらない。若者に苦しみ を与えている政府・グローバル資本は痛くもかゆくもないのだ。

 同種の事件がある度にマスメディアは「若者が希望を持てる社会にしなければならない」という。それを言うなら「若者を見殺しにする国」の現状を打ち破る 具体的な取り組みが必要だ。社会変革が可能であることを彼らが実感できない限り、希望や展望は生まれない。 (M) 
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