2010年10月29日発行 1155号

【尖閣諸島(釣魚島)問題 「日本固有の領土」は本当か? 日本も中国も政府の狙いは石油】

 中国漁船衝突事件をきっかけに、「尖閣諸島は日本の固有の領土」というキャンペーンが巻き 起こっている。政府や民主党、自民党、マスコミは言うに及ばず、共産党までが大々的に「論証記事」を載せている。まるで、それ以外の意見は存在しないよう に見える。だが以前は、「固有の領土」論は当たり前のものではなかった。「領土問題は存在しない」の虚構を暴くとともに、尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題 は領土問題というより海底資源問題であることを明らかにしよう。

尖閣問題は海底資源問題

 尖閣諸島の領有権が問題になりだしたのは、1960年代の後半からだ。

  有数 の埋蔵量と報告

 1966年、エカフェ(国連アジア・極東経済委員会)がアジア東海岸の海底鉱物探査への援助を決めると、米国は独自に調査を開始。69年4月、東シナ海 の大陸棚と黄海下にある堆積物には石油と天然ガスが保留されている可能性が大きく、将来世界的な産油地域になると期待される、との調査結果を発表した。

 こうした動きを受けて、米民政府(注)の施政権下にあった石垣市は69年5月、「行政区画を明確にする必要がある」として尖閣諸島に標柱を建てた。日本 政府(総理府)も「尖閣列島周辺海域の海底地質に関する学術調査」の名目で海底油田の調査に乗り出した。翌70年8月日本政府は、◇琉球政府に対し尖閣列 島の領有権を表明するよう要請する◇米国政府に対し尖閣列島が現在米民政府の統治下にあり、沖縄とともに日本に返還されることを再確認する、などの方針を 決めた(出所は、高橋庄五郎『尖閣列島ノート』)。これを受けて琉球政府は翌9月、尖閣列島は国際法でいう「無主地の先占」によって日本領になったとする 声明を発表した。

 日本もきっかけは海底油田

 これに対し中国は、同年12月の新華社の記事を通じて「台湾省に付属する釣魚島・黄尾嶼(しょ)・赤尾嶼・南小島・北小島は中国の領土である」と主張し た。

 こうした経過が示すように、海底油田の可能性が発表されたとたんに領有権を主張しだしたのは、中国や台湾だけではない。日本もそうなのだ。『中央公論』 72年5月号のコラム「東風西風」は、「中国を硬化させるのを承知で、政府が日本領有の“つじつまあわせ”や“ツバつけ”にやっきとなるのはなぜか。そこ には“石油があるから”といった海底資源への先取り意識は、当然考えられる」と指摘している(前出『尖閣列島ノート』から引用)。その意味で、尖閣問題は 領土問題というより海底資源問題なのだ。

「領土問題はない」は虚構

 では、尖閣諸島が日本の領土であるというのは、明白な事実なのだろうか。

 1972年3月の外務省発表は、「尖閣諸島は、…これが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、明治28年 (1895年)1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」と説明している。いわゆる「無主地(ど この国にも属さない地域)の先占」による取得との主張だ。

 本当に「無主地」 だったか

 1556年、近海で暴れ回る倭寇に悩まされた明王朝は倭寇討伐総督を任命したが、その際海上防衛の範囲には釣魚島・黄尾嶼・赤尾嶼などの島嶼が含まれて いた。明から琉球を訪れた第12回冊封使(1561年)の郭汝霖が書いた『重編使琉球録』の中に、「赤嶼者、界琉球地方山也」との記述がある。「赤尾嶼は 琉球地方との境の島だ」との意味だ。当時は、日本が尖閣諸島と呼ぶ島々が明国領と認識されていたことは確かだ。

 だから、古賀辰四郎という民間人が1885年に魚釣島(中国名・釣魚島)と久場島(同・黄尾嶼)の開発許可を願い出た時も、明治政府は「我邦ノ所属タル 事判明無之」(つまり、清国の領土かもしれない)として許可しなかった。ところが、1895年1月に明治政府は、「当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付」とし て、「久場島魚釣島ト称スル無人島」に国標を建てるのを許可する閣議決定を行なった。

 10年間で何が変わったのか。日本は1894年8月に清国に対して宣戦布告し、12月には早くも勝敗は決していた。翌年6月には台湾は日本に割譲され た。日清戦争に勝ち台湾を奪い取るという時期に、その付属島嶼にすぎない尖閣諸島を日本の領土に組み入れたからといって清国が文句を言うことはないとの読 みが働いたことは間違いない。台湾割譲により台湾と沖縄県の国境がなくなったので、それ以降尖閣諸島の帰属が問題になることはなかった。

 「先占」手続きにも不備

 「先占」の手続きにも不備がある。閣議で沖縄県の所轄としたのは魚釣島と久場島の2島だけで、大正島(中国名・赤尾嶼)や北小島・南小島などには言及さ れていない。また2島に標杭を建設する旨の閣議決定はしたが公示されず、その存在が対外的に公になったのは、『日本外交文書』第18巻(1950年)・第 23巻(1952年)の刊行によってであった。それまでは日本が2島を領土に組み入れたことは、国民も諸外国も知らなかったのだ。

 さらに実際に標杭が建てられたのは、閣議決定から74年も経った1969年5月、しかも米軍施政下でのことだったのである(先述)。

 以上のように、尖閣諸島は「日本固有の領土」とはとても言えない。

 では、尖閣諸島は中国のものかと言えば、それもノーだ。明の時代を中心に中国が尖閣諸島を自国の領土と認識していたことは確かだが、継続して実効支配し ていたとはいえない。それは日中国交回復の過程で、周恩来首相が「尖閣諸島のことは忘れていた」と述べていることからも明らかだ。日中どちらも領有権を主 張する論拠は不十分なのだ。

 日中間に「領土問題は存在しない」というのは虚構だ。領土問題は存在する。では、どうすべきか。

共同開発に向け外交交渉を

 領有権を盾にした、中国の軍拡に対抗する南西諸島への自衛隊配備や装備の強化は、双方の不信感を増幅させ軍事的緊張感を高めるだけだ。同時に、中国の急 速な軍拡と資源確保のための海洋進出は周辺諸国との摩擦を生み、日本の好戦勢力の戦争国家路線に絶好の口実を与えている。

 1972年9月、日中共同声明が調印され日中国交回復が実現した。1978年10月に日中平和友好条約の批准書交換のために来日したケ小平副総理は、 「この(尖閣諸島)問題については双方に食い違いがある。国交正常化の際、双方はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉の際にも同じくこの問 題に触れないことで一致した。…こういう問題は一時棚上げしても構わないと思う。…次の世代はわれわれよりもっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れ られるいい解決方法を見いだせるだろう」と述べた。

 この棚上げ論に対し、当時の日本政府は公式の反論や抗議を行なっていない。日本政府も事実上、尖閣問題をその後の交渉にゆだねたのであり、以降今回の事 件の前まではこの立場がとられたのである。

 いまは政党もマスコミも一歩も譲れない領土であるかのように扱っているが、もともと尖閣問題は海底資源問題だ。日中両国は2年前、東シナ海の排他的経済 水域(EEZ)の線引き争いを棚上げし、ガス田の共同開発で合意した。領有権問題を棚上げして、海底油田の共同開発や両国漁民のための自由漁業海域の設定 など双方が合意できる方策を見出すことは可能だ。

(注)米民政府
 米軍が占領下の沖縄に置いた統治機構。この下部組織としての琉球政府があった。
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