2011年05月20日発行 1182号

【非国民がやってきた!(109)大逆事件100年(12)】

 『経済学批判要綱の研究』『中期マルクスの経済学批判』で知られる経済学者の内田弘(専修 大学名誉教授)が、大逆事件100年、そして啄木の『一握の砂』100年の昨年出版した『啄木と秋瑾』は、啄木研究にまったく新たな画期を拓く著作として 注目されます。

 「石川啄木の歌には、中国の清国末期の女性革命家・秋瑾(しゅうきん、Qiu-jin、チョウチェン、1875〜1907年)の詩詞を踏まえた歌が多く ある。秋瑾は中国近代革命の出発点である辛亥革命(1911年)の少し前まで生き殉死した。秋瑾の詩詞こそ、啄木歌が誕生した母胎である。啄木歌誕生のこ の真実は、これまでの啄木研究で一切、認識されてこなかった。」

 内田によると、1907〜10年頃、赤旗事件や大逆事件が発生した時期の啄木の文章や短歌(その一部を本連載で紹介してきました)は、日本の政治状況に 対する啄木の反応であるとしても、それ以上に基本的には秋瑾という一人の中国人女性革命家の人生と詩詞に圧倒的な影響を受けたものであって、これこそが啄 木の「短歌革命」の秘密であるといいます。

 100年に及ぶ啄木研究において、そのようなことは一度も語られていませんから、これまでの膨大な啄木研究は、啄木「短歌革命」の意味も、作品の意味 も、ほとんど誤解してきたということになります。内田説が事実であれば、啄木研究自体の革命的転換が必要です。

 秋瑾とは、内田によると、科挙官僚の家に生まれ、子どものころには纏足(足を縛って小さくする中国の伝統的習慣)に苦しみ、女性差別的な伝統共同体を打 倒しようとした「愛国・民主主義者」です。1904〜05年、日本に留学し、東京の清国人留学生社会を指導し、孫文の中国同盟会に参加し、近代革命をめざ しました。しかし、1907年、故郷の紹興で反清朝軍事拠点を準備中に逮捕され、斬首刑に処されたといいます。秋瑾の殉死を悼んだ東京の同志たちは秋瑾追 悼詩集『秋瑾詩詞』(秀光社、1907年)を刊行しました。

 秀光社は、後に啄木に大逆事件の裁判記録を貸した弁護士・平出修の自宅の近所にありました。平出は清国人留学生とその運動に関心を持っていたので、『秋 瑾詩詞』を入手して、当時は北海道にいた啄木に送ったはずであり、それゆえ啄木は秋瑾作品を読むことができたはずであるし、1908年以後の啄木の短歌に は、秋瑾詩と「韻字を踏」んだ作品が多数登場します。一例として、内田は、啄木歌集「緑の歌」第54首を取り上げます。

  頬につたふ涙のごはぬ君を見て我がたましひは洪水に浮く

 この歌のうち「涙」「たましひ」「洪水」の3つの語彙は、秋瑾の代表的な詩である「有懐」(懐い有り)の「涙」「魂」「浮滄海」を選び取って、これらを 受けて、つまり韻字を踏んで歌ったものだといいます。ですから、歌の意味は<君(秋瑾)が女性の権利を拡張する革命を準備するために「日本に留学する」と き、君の内面に深く湛えた悲しみは「洪水」をなすようだ。君は流れる涙を拭おうともしない。その君を面前にして私の魂は君の涙の洪水に浮かび、君の悲しみ が浸みてくる>となります。

 一首だけ紹介しても直ちに納得はしがたいところですが、内田は370頁を越える本書で、啄木の193首を素材にして、啄木がいかに秋瑾作品に題材を得て 「短歌革命」を実践したかを詳しく論証しています。時事評論やエッセイなども基にして、秋瑾が留学していた東京と、北海道の啄木、そして上京して赤旗事件 や大逆事件に遭遇した啄木を、緊密なつながりのもとに総合的に把握しようとしています。

<参考文献>
内田弘『啄木と秋瑾――啄木歌誕生の真実』(社会評論社、2010年)
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