2011年10月28日発行 1204号
【希望のバスが伝える 希望のリレーインタビュー/詩人ソン・ギョンドン(1)/非正規雇用をなくすために/立ち上が
り、社会的闘争を】
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韓進(ハンジン)重工業による整理解雇の撤回を求めて女性労働者キム・ジンスクさんが地上35メートルのクレーン上で籠城を始めた今年1月、別の場所で
入院生活を送る人がいた。キリュン電子の復職闘争の支援中クレーンから落下する事故で足を骨折したソン・ギョンドンさんだ。配管工、溶接工、大工などをし
ながら労働者としての人生を歩み、10年ほど前から非正規職撤廃運動に携わる彼は、希望のバスの企画者の一人。詩人でもある。詩の紹介から詩人ソン・ギョ
ンドンのインタビューを始める。
“些細な問いに答える”
ある日
ある自称マルクス主義者が
新組織の結成を共にしないか と訪ねてきた
話の最後に彼は尋ねた
ところでソン同志はどこの大 学出身か、と笑いながら
私は高卒で、少年院出身
労働者の出身だと話した
その瞬間、情熱的に語っていた二人の瞳に
冷ややかで生臭いひとつの幕が下りてくるのが見えた
当惑しながらも彼が言った
祖国解放戦線を共にできることを
光栄に思いなさいと
すまないが、私はそれを共にしなかった
数十年が過ぎた頃
また違う部類の人たちが
どの組織に加入しているのかと尋ねてきた
私はまた、ありのままに答える
私はここにいると
波に押し流され
花びらの前で、日々揺れて
この緑の木に染まり
風に吹かれ動かされている
なにも持たない、彼らの壊された壁
貧しく力のない人々の言葉の中に所属していると
回答する。数多くの問いを自分の中に刻んでも
何も語らない、その川の流れから指導を受けていると
* * *
キム・ジンスク氏とは一度だけ、97年に労働運動の現場で会いました。でも、ジンスク氏が15歳から女性溶接工として生きてきたように、私も高校卒業
後、溶接工、配管工、大工として生きてきたので、彼女の人生には常に共感を持っていました。個人的な印象は、一言で表現すると、物静かで慎重な人です。
2008年、私がキリュン電子の闘争をしているとき、ジンスク氏は『塩の花の木』という本を出版。その印税をすべて闘争資金としてカンパしてくれまし
た。このことは公にしないで、と言いながら。当時、闘いは本当に厳しかったので、とてもうれしく、彼女の心の温かさを感じました。だから実は希望のバス運
動は、個人的には彼女への借りを返したいという思いがあるんです。
孤立した状況に怒り
キリュン電子闘争で警察と抗争になった際、私はクレーン上で抵抗し、落下事故に遭いました。入院中、現代自動車のファン・イナ組合員の焼身抵抗や25日
間のストが終結してしまったというニュースに絶望感を持ちました。無気力に横になっていた5か月の間、労働者の闘争がこんなにも命をかけたものなのに社会
から孤立しているさまを目の当たりにし、闘争が全く解決しない状況に怒りを感じるしかなかったのです。
しばらくしてキム・ジンスク同志がクレーンでの高空籠城を始めたと聞きました。私は、状況が厳しく答えが見つからなくても、気を確かに持つことが大事
だ、絶望して苦しむことは何か違う、楽しく希望に満ちた話をしながらこの時期を耐えなければ、と思い直すことにしました。
地域の連携が必要
韓国の非正規職闘争は、ニューコア・イーランド(大手スーパー)600日、KTX(韓国高速鉄道)女性乗務員900日、キリュン電子1895日、GM大
宇(デーウ)1300日、ドンヒオート1200日、そして現在、個人学習非正規教師問題1370日とすべて長期化してきました。これは自慢すべきことでは
ありません。各企業別の決死闘争だけでは非正規問題の突破口は開かれない、非正規職を制度化している状況こそ問題だということを示しています。私たちは立
ち上がって“社会的闘争”をしなければならないのです。
そこで、2年間の期限を決めて事業計画を立てました。それが“非正規職のない世界をつくる100万人行進”であり、“社会憲章制定運動”です。政界に任
せても非正規職法案は拙速で欺瞞的なものでしかないから、私たちの活動の力で社会的ガイドラインを下から作っていこう、それを持って政界に圧力をかけよ
う、と。そのような提案をする中で地域の連携・ネットワークを構築することが必要ではないかと議論し始めました。
なすべきことをやる
そんな4月末頃、数人の同志たちとコーヒーを飲みながら、こんな話になりました。2003年に同じクレーンで高空籠城したキム・ジュイク烈士が他界した
のは129日目だった、キム・ジンスク同志が高空籠城を始めて129日目は5月14日だ、その日はジンスク同志もつらく心細いだろう、だったらこれまで共
に闘ってきた双竜(サンヨン)自動車、個人学習非正規教師、コルトコルテック(ギター製造)の仲間などを集めて私たちだけでも応援に行こう、と。
われわれが先に連帯しなければ他の人々に共に闘おうとは言えないではないか、という考えでした。“行ってみて、楽しく遊んでこよう”と。だから最初はみ
んな、電車で行こうか、レンタカーで行こうか、と気軽な気持ちで話し合ったんです。ところが、何人も都合が悪くなり、それこそ少人数で韓進重工業に行くこ
とになりました。
実際に釜山に行って帰ってくると、いろいろ考えることが多かったです。もっと大勢の人が行くべきだという思いとそれを実現するためのプレッシャーで、悩
みに悩みました。希望のバスを提案したのは5月18日頃。私は、私がすべきだと思うことに身を任せるのが正しい道だ、という結論を出したのです。(続く)
[文:オ・ソヨン/翻訳:友岡有希]
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