2011年11月11日発行 1206号

【希望のバスが伝える希望のリレーインタビュー/詩人ソン・ギョンドン(2)/闘争現場を“解放区”に/自由に歌い、 たくさん泣いた】

 キム・ジンスク同志の歩みは、韓国民衆の受難史・絶望史そしてそれを乗り越える抵抗の歴史 です。26歳で解雇、懲役2回、指名手配5年。釜山で行ったことのない警察署はない。まさに80年代労働運動の生き証人です。しかし実はある程度安定した 生活ができる状況でした。『塩の花の木』の著者であり、労働運動の名講師として多くのものを得ていました。にもかかわらず何か満たされずにいた。彼女は悲 しかったのです。なぜでしょうか。

絶望を打ち破る

 85号クレーンは2003年にキム・ジュイク、クァク・ジェギュ烈士が整理解雇粉砕闘争をし、命まで落とした場所です。そこに彼女が再び上った。個人的 理由ではありません。民主労組運動の厳しい現実と新自由主義のグローバル化が進む韓国国民の絶望があるからです。それを打ち破るために身を投じた。彼女が 守ろうとしたのは韓進重工業の組合員だけではなく、それらを超えたものだったのではないでしょうか。

 第1次(6月12日)希望のバス参加者3千人の多くは、彼女の生き方への共感と感動が参加の動機でした。「切迫した状況で個人の問題を超えて孤独な闘争 をしてくれている」と。しかし、希望のバスの本当の姿に会社側はもちろん、労働者も参加した市民も準備した私たちさえ全く気づいていませんでした。現場で は会社の私的警備隊や警察がどう対処すべきか右往左往。私たちは塀を乗り越え、闘争の現場を“解放区”にしてしまったのです。重要なのは、そこで参加者が 本当に楽しんだということ。決められた計画などなく、皆が自由に発言し、歌い、たくさん泣いた。これは一企業の問題ではない。生きるとは何か。連帯とは何 か。キム・ジンスク氏を元気づけようとしていた人々が逆に感動と癒やしを受け、本当の運動を体験した。それが広く知られ、メディアでも騒がれるようになっ た。この人々の力で希望のバスが作られたのだと思います。

 次の日から参加者の感想が届き始めました。「私たちは多くのものを得たが、残った労働者は孤立し、バスの余波でどんな弾圧を受けるか分からない」「もう 一度行って彼らを守るべきではないか」と。


だましの合意案

 自然に第2次希望のバスの議論が始まりましたが、個人的には悩みました。まだ組織だってはいなかったので。でも想像力や創造性は豊富という利点もありま した。第2次は当初85号クレーンを象徴してバス85台を目標にしましたが、計算すると3千人くらいにしかならない。籠城何日目か数えました。185日目 だ! そうだ、185台を目標にしよう!となったのです。話し合えば皆すぐに同意してくれます。出発の1週間前、参加者はバス100台ほど。でも残りの1 週間で195台に。みんな驚きました。

 一方、第2次希望のバスの決定後、意図的に労使合意案が出されるかもしれないという懸念があり、実際、直前の6月27日に欺瞞的な合意案が出されまし た。メディアも「すべて解決」と書き立てた。しかし、希望のバス195台は釜山に向かいました。私たちは合意案が出た翌日、「この労使合意は道徳的・論理 的・倫理的にも、内容も手続きも正しくない。無効だ」という宣言を発表しました。そんな資格も権利も私たちにはなかったのですが。
[文:オ・ソヨン/翻訳:友岡有希] (続く)
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