2013年12月20日発行 1310号
【韓進重工業の整理解雇と闘った/キム・ジンスクさん講演(上)/地上35mのクレーンに309日/人間の本当の生き方“正しいことは正しい”】
|
韓国の大手企業グループ、韓進(ハンジン)重工業の整理解雇撤回を求めてプサンにある影島(ヨンド)造船所クレーンに309日間籠城した民主労総指導委員キム・ジンスクさんとその闘いを支えた民主労総プサン支部のファン・イラさんが来日。12月1日、ZENKO冬のつどいで講演した。キム・ジンスクさんの闘いは、国内外から多くの市民が「希望のバス」で支援に駆けつけ勝利した。2回にわたって講演要旨を掲載する(まとめは編集部)。
人間らしく生きる
私が85号クレーンに上った(2011年)1月6日、プサンの気温は零下13度でした。あまりの寒さに1日中震えていて、顎が痛くなり食事もできないほどでした。1日中後悔していました。明日上ればよかったのに、と。
309日間上っていたのですが、降りてきて初めてその長さを実感しました。上った直後に結婚した友だちが、降りてきたら赤ちゃんを抱いていたのです。
クレーンの上は24時間揺れ続けているので、最初の2か月は毎日吐いていました。降りてきてから酔いが始まり回復に2か月かかりました。
韓進重工業に入社したのは1981年のことです。造船の溶接の仕事をしていました。その頃の韓国は軍事独裁政権だったので、労働組合活動をすると「アカ」「不純分子」のレッテルが貼られ弾圧を受ける時代でした。私は組合役員に当選した直後に対共分室(民主化妨害機関)に連れていかれました。軍服に着替えさせられ、暴力が始まります。足首を縛られ逆さに吊るされました。床を見ると赤い血が溜まっていました。自分の目からしたたっている血だと分かりました。
その時私は26歳でした。組合活動をし解雇され、対共分室に3回連行され、懲役生活2回、逃亡生活を5回経験しました。韓国で労働者として生き不正義に立ち向かおうとすると弾圧を受けるのは避けられないのだろうなと考えるようになりました。
このような人生に後悔していません。正しいことを正しいと言い、誤りは誤りだと言って、行動するのが人間の本当の人生、生き方だと信じているからです。
03年の教訓
2003年の経験があって、85号クレーンを選択することになりました。
03年は韓進重工業が史上最高の黒字を計上した年でした。にもかかわらず、会社は一方的に650人もの労働者に解雇を通知しました。韓国でも労働者がストライキで闘うのは本当に大変なことです。2年以上ストライキ闘争を続けたのですが、賃金は全く出ず、解雇、停職と懲戒がなされ、警察からは逮捕状が出されました。会社は損害を被ったとして、ストライキに参加した組合員に損害賠償を請求する仮処分申請を行いました。
交渉の末、労働組合と社長の間で合意が成立。しかし、会長がそれを覆しました。合意が覆されたその日、当時組合の支会長だったキム・ジュイク同志が85号クレーンに上りました。129日間1人でそこにいました。
当時はツイッターもなく「希望のバス」もありません。その129日間、たった一度の交渉も行われませんでした。彼は1人首を吊りました。
その129日間食事を作り、支えたのが昨日(11月30日)命を絶ったキム・グムシク同志です。毎日食事を作っていた彼はこのように言っていたそうです。「どうかこのご飯を食べて、元気に無事で降りてきてください」と。
キム・ジュイク同志は食事の上げ下ろしに使っていた紐で首を吊りました。そんなこともあって、キム・グムシク同志は重いうつ病にかかって苦労しました。にもかかわらず韓進資本はその彼も解雇してしまいました。
キム・ジュイク支会長が命を絶った2週間後、クァク・ジェギュ同志がクレーン下のドックで死体で発見されました。2人の労働者の死があって、整理解雇はようやく撤回されました。
2人の葬式が終わってから8年間、私は住んでいる部屋に一度暖房を入れませんでした。2人の同志を本当に冷たい地においてしまったという申し訳なさ、2人が命をかけて守ろうとした組合員たちが私の責任として残されたと思ったからです。
整理解雇再び
2010年、会社はもう一度、整理解雇の刃を向けてきました。組合の執行部が替わったからです。
8年間は2人の遺志を受け継ぐ烈士執行部でした。しかし、新しく選出された執行部は組合員と共に闘うのではなく、交渉を通じて賃上げやボーナスを求める実利主義路線をとりました。この執行部は私がクレーンに上ったらみんな逃げてしまいました。連中はもう一度選挙に出ました。もちろん落選しましたが、その後に作られたのが複数労組(日本の「第2組合」)です。
李明博(イ・ミョンバク)政権のもとで、複数労組は民主的労組を破壊して弾圧する役割を果たしています。韓進重工業の場合、民主労組の組合員を休職させ、民主労組を脱退し複数労組に加盟すれば復職させるのです。
労働者は整理解雇がどれほど苦痛か身にしみてわかっています。雇用不安は大きな問題と感じています。雇用不安につけこんで、民主労組を破壊しようとしています。
私がクレーンに上った当時、状況はとても悪いものでした。組合が私のことを歪曲して宣伝したり、弾圧したり、執行部の幹部たちが私を引きずり下ろそうとする状況でした。私に残された手段はツイッターしかありませんでした。
ツイッターでつながる
ツイッターはクレーンに上って初めてやりました。闘いの手段にしようなどと思ってもいませんでした。ただ本当に苦痛で寂しかった。みんなとつながっていたいので、冗談や日常のささいな出来事を送る程度のものでした。
クレーン上で最初に書いた文章は「整理解雇撤回のためにクレーンに上ったのではない。この鉄骨のクレーンをマジンガーZのような巨大なロボットに改造するために上ってきたのだ」と。
マジンガーZのようなロボットにすると書いたからか、人びとが関心を持つようになりました。女優キム・ヨジンさんは友だちと一緒にクレーンを訪れて警察に連行され、社会的に話題になりました。結果的に警察は85号クレーンのことを全国の隅々に知らせるメッセンジャーの役割を果たしてしまったのです。
6月27日、警察権力がクレーンを攻めてきます。その時から400人を超える請負警備員が包囲するようになりました。誰一人クレーンに近寄らせない厳重なものでした。たった一人も許されなかったその包囲網を突破してクレーンに来れたのが、ここにいるファン・イラさんです。
私は2010年にも韓進重工業の整理解雇を撤回させようと24日間のハンストをしました。その時から胃を悪くして、食事をろくに食べることができません。ファン・イラさんは私のために309日間毎日お粥(かゆ)を作り、ロープの先に吊るしてくれました。その間、ファン・イラさんも外に出られない「監禁生活」を送っていたわけです。彼女にも拍手を送ってください。 (つづく)
 |
|