2014年01月17日発行 1313号

【原発被害者訴訟の原告とともに/国・東電に責任をとらせよう(3) かながわ訴訟原告団長・村田弘さん】

 神奈川県に避難し、国と東京電力に損害賠償を求めて提訴したのは第1次、2次合わせて23家族65人。原告団も結成された。

原告のつながりを

 原告団長を務めるのは、南相馬市から横浜に避難した村田弘(ひろむ)さん。「被害者一人ひとりがどれだけ声を上げられるかが勝負。原告同士が顔見知りになり、お互い励ましていければ」。各地に散らばる原告が孤立しないよう、団の結成を呼びかけた。

 自宅は原発から北へ約16キロの旧警戒区域にあった(現在は「避難指示解除準備区域」に変更)。村田さんは、職業軍人だった父親が横須賀にいた時に生まれた。2歳半で南相馬に疎開し、高校まで過ごす。大学卒業後大手新聞社に入り全国を転々。定年退職して南相馬に戻り、退職金の半分を使って空き家だった妻の実家をリフォームし住みついた。「家賃を払わなくてもいい生活がやっとできる。人生の最後ぐらい地べたにしっかり付いた生活をと考えた。広い農地の草むしり、畑作りにいそしんでいた。いいところなんだよ」

 3・11の津波。村田さんの家は高台にあり、難を逃れた。翌日、地震で壊れた弟の家の片付けをし、帰宅したところで原発爆発を知る。「『20キロ圏内に避難指示』のテロップが流れたので、そのうち避難先の知らせがあるだろうと動かなかった。翌朝、妻が『街の中はシーンとしてた。誰もいないみたい』と言うので驚いた」

 市の職員に避難先を聞き、郊外の体育館に行くとすでに満杯。暖房もなく、毛布1枚にくるまって眠れない夜を過ごした。15日早朝、2号機、4号機爆発。翌日、避難所閉鎖が告げられ、村田さんは車で長女のいる川崎をめざす。25日には住宅供給公社の団地に入居。現在は、長女家族と横浜市内の戸建ての借家に住む。

 事故から半年後、東電は156ページに及ぶ「補償金請求マニュアル」を送りつけてきた。「請求書の確認事項の中に小さな字で『請求は1回限り』とある。取材した水俣病の『見舞金契約』のことを思い出し、涙は怒りに変わった」

 環境省福島環境再生事務所からは昨年、帰還準備のためと称して除染計画書・除染作業実施同意書が届いた。除染の範囲は自宅の周囲数十メートル四方で、外壁・屋根瓦などを拭き取る。図面上の放射線モニタリングの数値は0・82〜1・57μSv/h。村田さんは「一時帰宅して測った時は数μSv、雨どいの下は18μSvもあった」と疑問を投げかける。「冬は北西の風が強く、家は防風林に守られるように建てている。杉の葉っぱが落ちてきて、掃除に追われる。いくら屋根を拭いても、山側や林の除染はしないからキリがない。土壌の除染も土は入れ替えず、表面から20センチを反転するだけ。作物に影響しない保証はない」

意識変革のチャンス

 ふるさとへの思いは強い。「帰りたい。悔しいから。周辺の事情も知りたい。でも、子どもや孫に盆正月に帰って来いとは言えないし、もう野菜や果物を送ることもできない」

 帰還強要には厳しい批判を向ける。「早く帰る人に90万円上積みする。人をばかにした方針。放射線が下がったから、ではなく、とりあえず帰って個人線量計を身につけてどれだけ被曝したか自己管理する。まるでモルモット扱いだ」

 村田さんは訴訟の意義をこう語る。「根本は、どれだけの大きな事故が起きたのか、反省していないこと。ごまかして問題を小さくし、再稼働していく大方針がある。放射線被害にふたをするのは、原発事故に続く第2の犯罪。訴訟を通して、被害があることをつきつけ、言い続けることが大事だ」

 提訴と支援の運動は市民の意識変革をもたらす大きなチャンスととらえる。「向こうにいる人、国家や権力が非常によく見えてくる。秘密保護法反対運動のように、理屈だけでなく体で危機を感じて行動するようになる。ふつうに暮らす人間をどうしてこうも切り捨てるのか、という根本的な認識ができると同時に、自分を変えなければこの国も変わらないとわかってくる」

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