2014年02月07日発行 1316号

【原発被害者訴訟の原告とともに 国・東電に責任をとらせよう(6) 京都原告団共同代表・福島敦子さん】

「とにかく避難」が後押し

 京都原告団共同代表を務める福島敦子さんは、原発事故当時、南相馬市のJR常磐線・原ノ町駅近くで娘2人(小4と小2)とアパート住まいをしていた。

 3月11日、津波は南相馬市にも押し寄せたが、家のある辺りは無事だった。翌12日の午前中は職場に行き、午後家に帰って家具などが倒れた部屋の片付けをしている時、防災無線から「窓を閉めてください。原発が爆発しました」と聞こえてきた。

 「今夜は飯舘まで行こう」と決めた。家に残ると言う両親を説得し、午後7時半頃、子どもの着替えとカップラーメンを車に積み、両親とともに5人で実家を出た。

 途中の農道は車が2列になっており渋滞していた。飯舘村に着いても、避難所や道の駅などどこもいっぱいだった。さらに西の川俣町まで行き、結局警察署の駐車場で車中泊。

 目が覚めると警察官が「福島市役所に行ってください」と言う。福島市へ移動し飯坂町の文化センターに避難することになった。

 14日、隣にいた整体師の人が「子どもに(ヨードの入った)うがい薬を飲ませなきゃあ」と、子どもにもうがい薬をくれた。いやがる2人に「飲みなさい」と無理やり飲ませた。結果が怖くて甲状腺検査はまだ受けさせていないが、「あの時のうがい薬が効いていたら」と願っている。

 避難を決断したのは19日頃。「原発敷地外でプルトニウム検出」という記事が出て、以前の上司で放射線取扱責任者だった人から「炉心はすでに溶融している。命が大事だ。仕事のことはいいから、子どもを連れてとにかく避難しろ」と言われたからだった。

 京都の友人から「京都は福島を支援しているよ」と聞いていた。すぐに京都府災害対策本部に電話をかけ、職員を福島に運んでくるバスが帰る際に京都に連れて行ってもらうことに。避難先に京都を選んだのは、以前に住んでいて土地勘があったからだ。

放射能汚染は全国に

 「京都に避難することにした」と告げると、両親はショックを受けたようだった。「原発があるところから逃げて、なんで原発のあるところへ行くのか」という父親の当時の言葉が、福井・大飯原発運転差し止め仮処分裁判をやるきっかけになっている。

 子どもたちが「ママが決めたのならいいよ」と淡々としていたので、福島さんは救われたと言う。どうせ避難するなら、娘たちの転校を新学期に間に合わせたい。4月2日夜に京都に着き、4日には木津川市の住宅に決めた。

 5月に元の職場を正式に退職。6月、木津川市役所の臨時職員に。9月からは派遣社員として地球環境産業技術研究機構(木津川市RITE)に勤務するようになり、その後嘱託職員になった。

 仕事も決まり、娘たちもこちらの生活になじんでいる。でも、来年3月で住宅支援は終了する。その後どうしたらいいのか、気にかかっている。
 両親は実家に戻っているが、福島では汚染水の流出が続き、燃料棒の取り出しが始まった。子どもを連れて帰る気にはとてもなれない。

 原告になろうと思った理由は2つ。小さな子どもを抱えたお母さんたちの気持ちを代弁したかったことと、ADR(原子力損害賠償紛争解決センターによる和解仲介)では加害者である東電の方が優位に立ち、被害者が頭を下げる構図はおかしいと思ったことだ。

 放射能の汚染は全国に広がっており、すべての国民にかかわる問題だ。福島さんは、この裁判では「みなさん、どう思いますか」と問いかけ、「自分も当事者」と思ってもらうことが大事だと考える。そして、自分自身の決意として「支援者をも救いたいという気持ちで闘い抜きます」と力強く語った。

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