2014年03月07日発行 1320号

【非国民がやってきた!(178) ユートピアを探して(6)】

 ユートピアをめぐる井上・大江・筒井鼎談は、戦後文学における全体小説をめぐって進行します。埴谷雄高『死霊』、野間宏『青年の輪』があげられますが、大江は次のように述べます。

 「丸谷才一以前の人たちは、中村真一郎はじめ全体小説を書くぞ、ヨーロッパにあって、日本にないものを書くぞという言挙げをしながら、じつは書かなかった。丸谷才一の新しい展開というのは、全体小説を市民小説といい換えたことです。市民の生活の中に現実の全体はすべて含まれているとして、市民生活の虚構で世界の全体を書こうと彼はめざしたのです。」

 大江は、一方で埴谷の『死霊』、野間の『青年の輪』が掛け声に反して全体小説になりえなかったことを示し、他方で三島由紀夫の『豊饒の海』を切って捨て、丸谷才一の『たった一人の反乱』や『裏声で歌へ君が代』が「全体小説=市民小説の理論を実作に生かしている」と診断します。この発言が三島由紀夫や江藤淳を批判する文脈で語られていることもとても興味深いのですが、大江はさらに一歩前に進みます。

 「ところが、『吉里吉里人』のような小説が出てきて見ると、そこにはいままで全体小説というあいまいな思想が目指していたものが、一挙に実現されていることを発見することができる、とぼくは思うのです。」

 大西巨人の『神聖喜劇』に対する評価が、この鼎談には出てこないのがいささか不満ですが、それは置いておきましょう。大江は井上ひさしの『吉里吉里人』に全体小説の可能性を見出し、山口昌男の文化人類学と接合します。

 「そのような意味での全体小説をこそぼくたちは求めている。それをなぜ求めるかというと、それはわれわれの時代が滅びて行くしるしにみちてきているとすれば、それに抗してなんとか救われたいということ、つまり現在における救済を、未来における再生を、人間の全体の規模でもとめるということが、文学のテーマになっているからじゃないか?」

 かくして、いま、ここにないものとしてのユートピアに絶えざる挑戦を繰り返すことが課題となります。現在の救済のためにどの過去に淵源・遡及しうるか。あるいは未来の再生に賭けるか。想像力は、現実を超えたユートピアを獲得し、ユートピアの彼方にもう一つの現実をつかみ出すことができるか。

 それではユートピアとは何でしょう。エンゲルスの『空想より科学へ』を引証するまでもなく、近代社会において人々は現実社会の改良・改善・変革を求める際の手掛かりとしてユートピアを構想しました。「ユートピアから科学」への模索が「科学というディストピア」に終わった現在もなお、ユートピアの種は尽きません。

 日本型マルクス主義や科学的社会主義が瓦解した後も「マルクス学」を牽引してきた経済学者の的場昭弘(神奈川大学教授)は、ユートピア思想をトマス・モアの『ユートピア』からではなく、「エデンの園」や、プラトンの理想社会論から連綿と続く、人類の発展の導きの糸として見ています。「未来への夢を孕んでいるという点で、極めてダイナミックであり、また、そうであるがゆえに、共産主義思想は時代を超えて人々の心を離さない魅力を持ちつづけている」と言う的場は、共産主義の系譜には、カベーらのユートピア共産主義思想と、マルクスらの千年王国論の系譜があると言います。人間が「神のように生きる」ために地上にエデンの園をつくることが求められるのです。

<参考文献>
的場昭弘『ネオ共産主義論』(光文社新書、2006年)
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