2014年04月18日発行 1326号

【原発被害者訴訟の原告とともに/国・東電に責任をとらせよう(12) 岡山訴訟原告・菅野久美子さん 福島のみんなが遊びに来られる 居場所づくりをがんばりたい】

 福島県から岡山県に避難した34世帯96人が3月10日、国と東電を相手に岡山地裁に提訴した。中・四国地方での原発被害者集団提訴は初めてだ。

立法も行政もダメ

 「三権分立の日本だが、子ども・被災者支援法のその後を見ても、立法も行政も全然だめ。司法という道しか残されていないのか」と話すのは、原告の一人、伊達市から岡山県玉野市に母子避難した菅野久美子さん。「このアクションを通して目に見える動きを作り、国がやらないなら県や市が独自に避難移住を受け入れるなど、若者が流出していく時代に地方にもメリットがあることをどんどんやっていくきっかけの一つにしたい」

 3・11は、印刷会社の営業で外回りをしている時だった。乗っていた軽自動車が飛びはね、信号が消え、道路沿いの塀が倒れていた。家の周囲だけは停電せず、近所の人が情報を知るためにやってきた。菅野さんはひとり暮らしの老人たちの様子を見て歩き、心配だからと家に誘った。

バスを乗り継ぎ東京へ

 翌日、母が「原発が…」と声を上げた。「これまで原発の存在に関心がなかった。東京の友人から『避難するなら来い』と言われて初めて、避難するような場所にいることを認識した」

 市からは、マスク着用の指示も放射線量の告知もなかった。菅野さんは娘と2人で21日、バスを福島市、郡山市、栃木県那須塩原市と乗り継ぎ、新幹線で東京・府中の友人宅へ。「海外の報道は爆発音入りの映像だったが、日本のテレビは消していた。『直ちに影響はない』と繰り返されるだけで、30キロ以上に避難区域が広がらない。これはだめだ、(約60キロの)私たちは見捨てられたと思った」

 その後、インターネットで見つけて川崎市の一般家庭に間借り。住民票を動かさずにできる区域外避難者向けの施策はなく、保育園入園や母子手当申請などのために住民票を移し、ハローワークに通った。

 6月には隣の飯舘村が全村避難、伊達市の一部も特定避難勧奨地点に。福島に残る妹たちも「危ない」と感じるようになった。せめて休み期間中でも保養に迎えられるようにと、住宅を探した。「不動産屋は母子家庭で職もない私に、何しに来たんだと言わんばかり。まるで身元不明者の扱い。家を借りられないというのはこんなにも社会的に認められない存在なのか」。悔し涙が出た。区域外避難者は行政から何の支援もなく、すべて自力だった。

小学校入学を機に岡山へ

 子ども・被災者支援法ができ、菅野さんは「避難先で1〜2年生活できればいいという施策にとどめてはならない。全国どこにでも避難でき、子どもが教育を受けられる条件整備をする。これが基本にならねばならない」と期待をかけた。しかし法は全く骨抜きにされた。

 昨年4月、娘の小学校入学を機に岡山に移った。放射能から子どもを守り、安心して遊ばせることのできる居場所づくりが目標にある。「福島では安心して学校に通わせ、外で遊ばせられない。福島に暮らすみんなはそれでもがんばっている。私は福島のみんなが遊びに来られる居場所を作るほうをがんばりたい」と選択した。

大人の責任を痛感

 しかし、一時帰省から岡山に戻った時、娘が「さびしい」と泣いた。「子どもは、小さな世界であってもコミュニティで満ち足りている暮らしに安心と幸せを感じるものであることを学び、豊かな自然や多様な世代の関わりに支えられた子育てなど、福島での暮らしの素晴らしさを改めて感じた。それでも私はもう『無関心』に、目を閉じ耳を塞ぎ口を開かないで生きることはしたくない。また同じことを繰り返してはいけない。大人たちの責任として、思いを伝えた」

地域の仲間とつながって

 新たな地を第二の故郷にしようと今、地域の仲間とつながり始めた。「私たちの声に耳を傾けてくれる人たちと、子どもたちの希望になるものを生み出したい」。菅野さんは強く願っている。「除染も復興も、国の『安全』はもう信じられない。娘が福島で生まれ育ったことを負い目に感じてほしくないので、誇りたいので、県にも国にも『いつか帰りたい』と思える、私たちの不安をくみ取る政策を共に考えて形にしてほしい」

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