2016年01月29日発行 1413号

【未来への責任(192)釜石「橋野鉄鉱山」見学】

 昨年、世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する遺跡の一つに、私が日鉄釜石訴訟以来20年通っている岩手県釜石市の「橋野鉄鉱山 橋野高炉跡及び関連施設」がある。冬季はインフォメーションセンターが閉鎖されることから、11月にガイド付きツアーを利用して見学に行ってきた。

 「橋野鉄鉱山」は、鉄鉱石の採掘場跡、運搬路跡及び高炉場跡により構成される鉄鉱山及び製鉄所の総称である。幕末の1858年に盛岡藩士、大島高任(たかとう)が、甲子(かっし)村(現、釜石市)大橋に洋式高炉を建設。釜石で産出する良質の磁鉄鉱の製錬に初めて成功した。この成功をもとに、盛岡藩が橋野村青ノ木に3基の高炉を建設したものが、「橋野高炉」だ。1955年から翌年にかけて発掘調査が行われ、1957年に国指定史跡となった。

 インフォメーションセンターで解説ビデオを見た後に現地に向かった。入り口から、花崗岩の切り石を組んだ1番、2番、3番と3つの高炉跡が並び、水路の跡が残っている。その周りを説明版が囲んでいる。ガイドの説明を受けないと、石組だけを見ていては遺跡の価値や全体像はなかなかわからない。しかし、「橋野高炉」が、後の釜石製鉄所、それを標的にした艦砲射撃、朝鮮人強制労働等につながったことを思うと感慨深いものがあった。

 インフォメーションセンターの展示で気になったのは、沿革の説明だ。「橋野高炉」の後、いきなり、現在の釜石鉱山や釜石製鉄所に飛んでしまっていることだ。その間の田中製鉄所による鉱山・製鉄所経営、官営での操業、日本製鉄や日鉄鉱業の時代が抜け落ちている。それはまた戦争の時代でもあった。磁鉄鉱が産出され、三陸の一漁村から鉱工業の集積地へと変貌を遂げたのが釜石である。また、釜石鉱山や釜石製鉄所には日本人だけでなく、朝鮮人・中国人・連合国捕虜も働かされ、けがや病気、労災、艦砲戦災等で亡くなっている。艦砲戦災では市民も含めおよそ1000人が亡くなった。

 実は、釜石市は過去の津波や艦砲戦災の体験継承が粘り強く取り組まれてきた土地だ。それが、実際に東日本大震災で子どもたちが山に逃れ命を守ることにつながった。釜石市立郷土資料館の展示でも、朝鮮人・中国人・連合国捕虜の強制労働についてもきちんと説明されている。

 こうした歴史を伝えることは、「橋野鉄鉱山」と現在の釜石との関係をより明らかにし、学びの場としての可能性も広がると思う。歴史問題はナショナリズムと結び付けられがちだが、決してそうではない。歴史に向き合うということは、よりよい地域を作るための営みだ。

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 山本直好)

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