2016年02月05日発行 1414号

【非国民がやってきた!(225)尹東柱(6)】

 尹東柱の作品における最初の転換について少し見ておきましょう。

 1935年前後、独立運動の波が打ち寄せていた龍(ヨン)井(ジュン)で、従兄弟の宋夢奎(ソンモンギュ)は独立運動に身を投じていきます。地元の光明学園中学部は親日系の学校だったため、民族意識の高い家庭の子どもたちは他校へ転じていきました。宋夢奎は中国へ、文益煥(ムンイッカン)は平壌の崇実中学校に転じました。

 尹東柱もやや遅れて秋に崇実中学校の編入試験を受けましたが、秀才の誉れが高かったにもかかわらず、「落第」して一学年下に編入することになりました。

 人生最初の挫折に耐えながら、平壌の生活と崇実中学校に慣れていきますが、「恥」ということを強く意識するようになります。「耐えがたい試練」に耐えながら、心の傷を癒しながら、人が持つ悲しみを身体で受け止め「恥じることの美学」の出発点です。

 「人は誰でも、闇が濃くなればなるほど光を渇望するようになり、混濁したところにいればいるほど、ますます澄んだ清らかさを慕うようになる」と言う作家・歴史家の宋(ソン)友(ウ)恵(ヘ)は、編入試験「落第」後のエピソードを綴りながら、「おのれの失敗とその羞恥の前に、彼がどれほど誠実かつ正直に、裸の姿で向き合ったか」を見て取ります。

 崇実の寄宿舎に暮らし、文芸雑誌『崇実活泉』の編集も引き受け、詩を書いていた尹東柱は、詩「空想」――1935年10月に初めて活字になった詩――を手始めに、「華やかで早熟な感じの修辞を使って織りなした網によって、ある形而上学的な観念をかっこうよく掬い上げ」ていきました。「蒼空」、「街にて」、「生と死」に代表される作品は、観念的で、「衒学的趣味を見せる『むつかしい』詩」でした。

 ところが、ここで大きな転換が起きます。

 1935年12月、尹東柱は童謡「貝殻」を書き、次々と童謡を書いてきます。詩の様相も大きく変わります。1936年2月の詩「鳩」以後、「やさしい言葉で、具体的で、真率に感情を織り上げる」詩の始まりです。

 若い詩人が最初期に難解な概念を並べ、華やかで天空を飛翔するような詩、激しい熱情を焦がらせる詩、悩み思索する詩を送り出しながら、やがてある時、簡明で、優しい言葉使いの詩に転じていくことは必ずしも珍しいことではありません。石川啄木の初期の煌びやかな衒学的作品と、後の短歌作品の関係を見れば、その典型例ということができます。

 尹東柱にも同じことが起きました。ただ、「同じこと」と単純化して済むわけではありません。それぞれの詩人がたどった道は似ているようで、天と地ほどにも違うかもしれません。

 尹東柱の作風の突然の変化をどのように理解するかはある種の「謎」でしたが、宋友恵は『鄭芝溶(チョンジヨン)詩集』(詩文学社、1935年)に答えを見ています。鄭芝溶は当時もっとも著名な詩人のひとりです。尹東柱がもっとも好きな詩人であり、詩集に多数の赤線を引きながら精読していたからです。そして、鄭芝溶の詩を見ると、そこにも「天真爛漫」な童謡、童詩が含まれているのです。

 尹東柱が1935年12月に突然、童謡を書き始めたことは、鄭芝溶の影響を受けたと理解するのが合理的だと言います。

 植民地支配のもとに喘いでいた韓国の若者たちが、独立を願いながら、自らの勉学にいそしみ、文学を志し、詩を志していた時期に、はるかな天空を仰ぎ見ながら、「天真爛漫」に、「明るく明朗な世界にたいする憧憬と羨望」を抱き、同時に挫折感に苛まれながら模索を続けていた――その例証として宋友恵は、尹東柱が崇実中学校時代の最後につくった詩「ひばり」を上げています。

ひばりは早春の日
じめじめした裏通りが
いやだったんだ。
明朗な春の空
軽やかに両の羽を広げ
妖艶な春の歌が
好きだったんだ。
でもね、
今日も穴のあいた靴をひきずって、
ふらふらと裏通りへ
稚魚のようなぼくはさまよい出たが、
羽も歌もないせいか
胸が苦しいな。

 「ひばり」は、尹東柱の希望と苦悩を集約した詩です。時代に果敢に挑みながら、跳ね返され打ちひしがれ、それでも断念することなく、自分の道を探し続ける青年の心のつぶやきです。

<参考文献>
宋友恵『空と風と星の詩人 尹東柱評伝』(藤原書店、2009年)
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS