2016年02月05日発行 1414号

【MDS学習講座/あらためて問う「民主主義って何だ」/根本原理は人間の「平等」】

 私たちはどのような時代を生きているのか。戦争と貧困のない社会を築くことはできるのか−−そんな読者の皆さんの疑問に答えるために、新企画を立ち上げました。題して「MDS学習講座」(不定期掲載)。

 第1回目のテーマは民主主義について。「民主主義が大切だ」とは誰もが口にしますが、あらためて「民主主義とは何か」と問われると、うまく答えられないのではないでしょうか。今回は民主主義の「根本」がどこにあるのか、考えてみましょう。

安倍の暴走を契機に

 安保関連法制(戦争法)反対の運動が高揚した2015年、この日本において民主主義に関する議論が久々に盛り上がりました。国会前デモでのコール&レスポンス、「民主主義って何だ」「民主主義ってこれだ」はすっかり有名になりましたね。

 こうした現象は、安倍内閣の文字通りの「反民主主義」的横暴への怒りを契機に、人びとが「民主主義の危機」を強く感じとったことから巻き起こりました。「民主主義は多数決。多数派を握れば何をしてもいい」というアベ政治のおかしさは誰もが感じたことでしょう。

 民主主義がたんなるお題目であったり、政治権力の横暴を正当化する方便であってはならないことは、皆わかっています。しかし、人びとが各自の考えに基づいて「これが民主主義だ」、「あれが民主主義だ」と語り始めた結果、「そもそも、民主主義とは根本的には何のか」という問題があらためて浮上しているのではないでしょうか。

 そこで、あれやこれやの運動や出来事を「民主主義(的)だ」と語る前に、民主主義の根本がどこにあるのかを明確にしておきましょう。問題を明確にするために、あらかじめ結論を述べるならば、その「根本」は、基本的人権に基づく人間の「平等」という考えにあります。この「根本」を抜きには、いかなる民主主義もありません。

 振り返って考えてみてください。私たちが、あれやこれやを「民主主義(的)」であると語るとき、そこには、必ずこの「平等」の原理が一定程度実現、反映されているのです。もちろん、その際「平等」の現われ方はさまざまですが。

人類史をふまえて

 まず、この「根本」を長い人類の歴史を通して確認しておきましょう。

 通常、民主主義の「原点」は、古代ギリシャの都市国家アテナイの政治に求められます。アテナイでは住民参加型の「直接民主主義」が行われていました。人々は広場に集まって、国家の現状と行く末について自由闊達に議論を交わすことができた、と言われています。

 それで、この「自由闊達に議論を交わすこと」それ自体が民主主義の根本であると、民主主義の本質はそこにあると、しばしば考えられてきたのです。しかし、人間の「平等」という観点から見ると、この「民主主義」の「平等」は極めて限られたものでした。よく知られているように、女性は政治の場から排除されていました。都市国家の生産的労働を担っていた圧倒的多数の奴隷は、政治から排除されるどころか、「人間」とみなされていませんでした。

 それと比べれば、中世の封建的・身分社会の最下層に置かれていた「農奴」は、少なくとも「人間」と認められていました。つまり、中世の身分制社会ですら、古代奴隷制社会を基盤に成立していたアテナイの「民主主義」より、人間の「平等」をはるかに拡大しているのです。

 人間の「平等」のさらなる実現という点で決定的であったのは、17〜18世紀にヨーロッパで起こった「ブルジョワ革命」です。近代の「ブルジョワ社会」は身分に基づく差別を撤廃しました。人間の「平等」を担保する「基本的人権」が高らかに宣言されました。ここで、すべての人間は、少なくとも「法の前では」平等になったのです。

 ただし、この社会実現の立役者であるブルジョワジー(資本家階級)は世界史のある時期から、かつて自ら掲げた「平等」の理念の反対者に転落していきます。「平等」の拡大と深化が自分たちの階級的利益と対立するようになったからです。そういうわけで、逆説的に聞こえますが、現代では「ブルジョワ民主主義」を守り、発展・深化させようとしているのが労働者階級(プロレタリアート)なのです。それで、現代における民主主義のための闘いは、きわめて少数の支配層に対する、圧倒的多数の勤労諸階層の「権利」擁護、拡大の闘いになっているのです。

 もちろん、「ブルジョワ民主主義」には限界があります。たとえば、ワーキングプアと呼ばれる低賃金労働者と巨大企業のトップは「日本国民」としての権利・義務においてはたしかに平等です。しかし、所得と資産の面では途方もない差がありますし、社会的影響力という点でも比べものになりません。

 こうした「不平等」を生み出しているのが「搾取」です。現在の資本主義社会では「搾取=他人の労働の成果の横取り」が合法的に行われており、それがすさまじいまでの「経済的不平等」をもたらしているのです。この「搾取」をなくすことが、私たちMDSが掲げる民主主義的社会主義の目標です。

「形態」と「原理」の混同

 以上のような人類の歴史の振り返りを通して確認しておきたいのは、人類史は人間の「平等」を徐々に拡大してきた歴史、つまり民主主義の前進の歴史であったということです。

 もう一つ重要なことは、この民主主義の根本原理と、それがさまざまなかたちで実現されるときの「形態」とを混同すべきでないということです。「多数決の原理が民主主義の本質だ」というような主張は、そのような混同に基づいています。また「自由闊達に語れる」ことが民主主義の本質をなすというような主張にも、民主主義の「根本原理」とそれの実現「形態」との取り違えがあります。

あらゆる場で徹底を

 さて、民主主義の根本が基本的人権に基づく人間の「平等」にあるとするならば、民主主義は「政治」の場面(たとえば、国会議事堂の前)だけで問題になるのではないことは明らかでしょう。およそ「平等」や「不平等」は、人と人との関係全般を基礎としています。ですから、民主主義は、職場や組織などあらゆるところで問題になります。

 私たちの職場やその他の組織の現実のなかに、「平等」がどの程度、どのように実現されるべきかを振り返ってみる必要があるでしょう。どくに、どの職場にも多くの非正規労働者がいる現在、立場や労働形態の差を超えて、彼ら(彼女ら)と人間として対等な関係を築くことが重要になっています。弱い立場にある人々の権利切り捨てや人権抑圧と闘うことは、職場に民主主義を実現するための基本課題でしょう。

 また、職場の同僚や「顧客」を、独立した人格をもった「人間」として遇しているか。人を「道具」や「手段」みたいに扱っていないか。こういうこともみな、民主主義の根幹に係わっているのです。

 さらに言えば、社会と政治の民主主義の実現のために闘っている「組織」のなかでも、同じように民主主義が求められます。その「組織」の目的が民主主義の実現にあるだけに、そのなかでは職場や地域一般における場合よりも、ずっと高度な民主主義の実現が要求され、その構成員はもっとも鋭敏な民主主義的感性を磨くように努力しなければならないのです。



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