2016年02月19日発行 1416号

【非国民がやってきた!(226)尹東柱(7)】

 宋友恵の評伝は、これまで知られていなかった立教大学時代の尹東柱の姿も追い求めます。

 尹東柱は、1942年3月に日本にわたり、4月2日に立教大学文学部英文科に入学しましたが、10月1日に同志社大学英文学科に転入学しました。夏休みには帰京しましたから、半年に満たない東京時代です。このため立教大学時代のことはあまり知られていませんでした。しかし、東京にも「尹東柱の故郷をたずねる会」があり、立教大学卒業生をはじめ、作品に感銘を受け、尹東柱を愛する人々がいます。

 1941年12月にアジア太平洋戦争が勃発し、日本は軍国主義の真っただ中でした。日本聖公会系のミッションスクールである立教大学にも軍事教練が強制され、現役陸軍大佐が配属されていました。男子学生は毎週1時間の軍事教練があり、年に1回は陸軍士官学校訓練場での野外訓練も受けなければなりませんでした。軍事教官はキリスト教を嫌悪し、学生を圧迫していました。1942年の時期、学生は「徴兵延期」の恩恵を受けていましたが、1943年6月には徴兵延期制が廃止され、学徒出陣に向かっていきます。

 それまでの間、学生は軍事教官に睨まれると、「教練出席停止」処分などの不利益を受ける恐れがありました。「教練出席停止」になると、後に陸軍に入隊しても「幹部候補生」になれませんでした。

 1942年夏に帰省した時に撮影した写真には、丸坊主姿の尹東柱が映っています。1942年4月10日、立教大学は「学部断髪令」を発したからです。戦時体制に即して、質実剛健を旨に学生たちの頭を断髪させることにしたのです。尹東柱も丸坊主にせざるを得ませんでした。

 1942年9月、立教大学は教育基本方針から「基督教に基づく」という一句を削除し、「皇国の道による教育」を掲げざるを得ませんでした。10月には礼拝堂が閉鎖されました。校歌「自由の学府」も禁止され、軍国主義に見合った歌がうたわれました。

 宋友恵は「彼がなぜ立教大学を離れようとしたのか、その理由の一端を推測させるものである」とみています。

 学友の回想によると、1942年4月、尹東柱が入学して間もない時期に、「いい先生を紹介してくれませんか」と尹東柱に問われて、高松チャプレン(高松孝治教授)を紹介しました。そして、高松教授の自宅にいっしょに行ったと言います。短い期間に、尹東柱は高松教授に教えを受けたと思われます。

 高松教授はキリスト教史、キリスト教経典学、ギリシャ語を教え、礼拝を担当していました。「語学の天才」と呼ばれ、朝鮮人学生の世話もしていた高松教授は、1937年に「支那事変」が起きると、教室で「とうとう恐ろしい日がきました」「今日から暗黒時代が始まります」と震える声で語ったと言います。

 戦局が悪化し、軍国主義の病理が深まった時期にも軍部に批判的だった高松教授は、難しい立場に追い詰められ、大学を離れることを余儀なくされました。栄養失調と病気に襲われ、1946年2月に逝去したということです。

 尹東柱自身、立教大学時代に「軍事教練拒否」を試みたようです。ある学友の回想によると、尹東柱は「教練服」を着ていなかったと言います。尹東柱は高松教授に教練拒否について相談し、高松教授は「神に祈っているから」と激励したと言います。尹東柱は陸軍の配属将校の前でも教練服を着用してなかったというのです。

 当時の立教大学には、後に立教大学名誉教授となる林英夫のように、軍事教練をサボタージュしようとして見つかり、教練出席停止(不合格)とされた学生が実際にいました。林英夫は尹東柱の一年先輩です。

 日米開戦よりずっと以前には各地の大学で軍事教練反対の闘いがみられました。しかし、1940年代に軍事教練を拒否することは、学生生活を断念せざるを得ないことであり、場合によっては命がけのことでした。まして、植民地とされた朝鮮出身の朝鮮人学生ですから、周囲の眼がひじょうに厳しかったはずです。

 詳細は不明ですが、宋友恵は「尹東柱の立教大学時代、すなわち東京時代を蔽っていた灰色の厚いベールが忽然と開け放たれ、あの時代の中へ大きく踏み込んだようだ」と言います。
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