2016年02月26日発行 1417号

【未来への責任/(194)宇部炭鉱の「水非常」】

 太平洋戦争中の1942年2月3日、山口県の宇部炭田(海底炭鉱)の東端に位置する長生炭鉱の坑内に海水が流入、坑道が水没し、183人の炭鉱労働者が犠牲となる事故(水非常)が発生した。うち135人が朝鮮半島出身であった。長生炭鉱は、1941年のピーク時には宇部炭田で第3位の生産量を誇るまで生産を拡大した。別名「朝鮮炭鉱」と呼ばれたように、41年から43年の3年間、労務動員計画の合計数が1630名(雇入総数1258名)と他の炭鉱と比べて群を抜いて多くの労働者を朝鮮半島から強制連行した。

 生存者の証言や当時の資料からみて事故は明らかな「人災」であった。事故発生の約2か月前には坑内出水があり、炭鉱側は出水事故を予見し警戒体制に入っていたにもかかわらず現場には一切知らせなかった。また作業中に海上を通過する船舶のエンジン音が聞こえたという証言も残っている。海底ギリギリまで採炭していたのだ。それは明らかに当時の安全規定にも違反する操業であった。いつ落盤(水没)事故が起こるかわからないにもかかわらず戦争遂行のための石炭増産を最優先させた結果である。一方、宇部炭田内で発生した2番目の大規模事故にもかかわらず事故発生を伝えたのは短い新聞記事だけで、続報もなく、歴史の闇に葬られてしまった。

 1982年、犠牲者を慰霊する「殉難者の碑」が建立されたが、そこには「永遠に眠れ/安らかに眠れ/炭鉱の男たちよ」という文言だけが刻まれ、強制連行の歴史的事実には一切触れられなかった。これに反対し歴史的事実を明らかにしようと市民が立ち上がり1991年、「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を発足させた。犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑の建立、 ピーヤと呼ばれる海面に突き出して建つ排気・排水口であったコンクリートの円柱の保存、被害者・遺族の証言および資料の収集と編纂の3つの目標をかかげている。

 当時の「殉職産業人名簿」という殉職者名簿と地元の西光寺に保管されている犠牲者の位牌の名前を照合して、犠牲者の本籍の住所宛てに118通の「死者への手紙」を送った。すると、年末までに17通の返事が返ってきた。その手紙を受け取った遺族を中心に韓国では遺族会が結成され、1993年から毎年追悼集会、95年からはフィールドワークも開催している。2013年2月、ついに市民の手で土地も確保し、日本人・朝鮮人全員の犠牲者の名前を刻んだ追悼碑を建立した。

 追悼碑前で行われた今年の「長生炭鉱水没事故74周年追悼式」は韓国仏教宗団協議会から約50名の僧侶が来日、遺族会からも孫の世代も含め総勢15名の遺族が参加して盛大に行われた。そして、会の運動は74年間海底に放置されてきた遺骨を故郷へ帰す「遺骨返還」という次のステージへ向かう。安倍を筆頭とする歴史「改ざん」主義者が跋扈(ばっこ)する今、足元から強制連行・強制労働の歴史を後世に伝える粘り強い市民運動の重要性はいよいよ高まっている。(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 中田光信)

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