2016年03月04日発行 1418号

【非国民がやってきた!(227)尹東柱(8)】

 1942年10月1日、尹東柱は同志社大学文学部英語英文学専攻に入学しました。立教大学と同じミッション系ですが、改心教組合協会派に属し、神学者を多く輩出した大学です。

 尹東柱は、42年10月から43年7月までに、英文学史、英文学演習、英作文を2コマ、そして新聞学を受講しました。

 伊吹郷の調査によると、尹東柱の京都での住所は「左京区田中高原町27 武田アパート」で、武田アパートは1936年につくられたかなり規模の大きいアパートだったという事ですが、戦争末期に出火して全焼したと言います。敷地跡には京都造形芸術大学があります。尹東柱は加茂大橋を渡って同志社大学に通ったと推察されます。

 宋友恵は、尹東柱が愛した詩人・鄭芝溶(チョンジヨン)の詩「鴨川」を引用しています。武田アパートから同志社大学への通学路は鴨川を渡ることになります。少年時代に心酔した鄭芝溶の詩集の「鴨川」の頁に、尹東柱は赤鉛筆で「傑作」と書き残しているからです。

 鴨川の十里の野辺に
 夕陽は沈み……しずみ

 日々にあなたを見送り
 喉がつまった……早瀬の水音……

 尹東柱の1937年の習作「黄昏が海となって」にも次のような表現があります。

 ひもすがら 青黒い波に
 ゆらゆら 沈み……しずみ……

 43年7月14日、尹東柱は特高刑事に逮捕され、下賀茂警察署に留置されました。従兄弟の宋夢奎は7月10日に逮捕されていました。

 43年12月の『特高月報』(44年1月発行)によると、特高警察は「在京都朝鮮人学生民族主義グループ事件」と呼んでいました。これによると、宋夢奎は朝鮮民族意識の昂揚と朝鮮文化の維持を願い勉学に励んでいたが、朝鮮独立のためには文学研究だけでは足りないと考え、歴史を学ぶとともに、尹東柱とともに、在京都の朝鮮人学生に働きかけたと言います。

 「朝鮮の現状は自分の言葉も文字も使へなくなつて朝鮮民族は将に滅亡せんとして居る。我々は朝鮮人たるの意識を忘れず朝鮮固有の文化を研究し朝鮮文化の維持向上を図ることが民族的文化人の使命である。朝鮮民族は決して劣等民族ではなく文化的啓蒙すれば高度の文化民族となる事が出来る、文化的に啓け民族意識を自覚する様になれば朝鮮独立は可能である。」

 「大東亜戦争の講和条約の際朝鮮独立を条件として持出されるべきであり、又持出されなく共日本の国力が弱くなるか或は日本敗戦の機に独立運動を起せば朝鮮人総てが集結し得る、其の際朝鮮出身軍人も一役果すべきであり我々も一身を犠牲にして立上らねばならぬ。」

 「内鮮一体政策は日本政府の朝鮮民族懐柔政策にして朝鮮民族を瞞着し、民族文化と民族意識の消滅を図り朝鮮民族を滅亡せしめんとするものである。」

 44年2月、2人は治安維持法違反の嫌疑で起訴されましたが、分離公判となり、尹東柱は3月31日、宋夢奎は4月13日に公判に臨み、同日、有罪判決を受けました。刑は懲役2年でした。

 判決理由の中で特筆すべきは、43年3月から朝鮮人に徴兵制が適用されるようになったことを踏まえて、2人が、朝鮮人が武器を持ち軍事知識を体得することができ、日本敗戦の際に優秀な指導者となって民族的武力蜂起を決行し、独立実現を可能にすると考えたとされていることです。

 日本でも軍隊内における反戦運動がありました。日本海軍の拠点であった呉軍港で、戦艦長門などの軍艦内で共産党組織が『聳ゆるマスト』を発行し、反戦運動を組織しました(前田朗『国民を殺す国家』耕文社、127頁)。

 「間島パルチザンの歌」で知られる詩人・槇村浩は、軍人に銃を後ろに狙うよう呼びかけ、軍隊内に抵抗運動ビラを配布しました(同書82〜83頁)。

 軍隊に徴用された朝鮮人が独立運動の担い手になるという発想は、権力に重い痛みを惹き起こしたはずです。
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