2016年03月18日発行 1420号

【非国民がやってきた!(228)尹東柱(9)】

 1944年4月に懲役2年の刑罰を言い渡された尹東柱(ユンドンジュ)と宋夢奎(ソンモンギュ)は福岡刑務所に収容されました。

 懲役刑ですから、通常は刑務所内の工場で木工等の刑務作業を強制されますが、2人は治安維持法違反の「思想犯」ですから、独居房での室内作業をさせられました。

 尹一柱によると、尹東柱は独房に収容され、室内作業を行っていたといいます。家族への郵便・通信は毎月はがき1枚(日本語のみ)であり、検閲のため墨が塗られて読めないこともありました。『英日対照新約聖書』を送れと言ってきたので、それを送ったことがあると言います。英文の含まれた聖書が房内の尹東柱の手に届いたかどうかは不明です。

 45年2月16日、27歳の尹東柱は福岡刑務所で亡くなり、宋夢奎は3月7日に亡くなりました。

 2人の死因については、当局による「生体実験」の疑いが指摘されてきました。尹東柱の遺体を引き取りに行った尹(ユン)永(ヨン)春(チュン)は、骨と皮ばかりの宋夢奎から「あいつらが注射を受けろというので受けたら、こんな姿になって、東柱もおなじように」という言葉を聞いたと言います。

 注射については、当時、九州帝国大学で実験していた血漿代用生理食塩水ではないかとの推測もありますが、謎のままです。

 伊吹郷は「尹東柱の詩は『抵抗だ』、『ちがう』と議論される。しかし、わたしはこの『抵抗』という言葉にいささかの抵抗を覚える。抵抗の対象がなくとも、彼は真実の、彼の言葉で清らかな彼の心でうたい『一点の恥辱(はじ)ない』自己省察のみごとな抒情詩人になったことをわたしは信じている」と言います。

 蔵田雅彦は「おそらくは自らの受難を覚悟した上での東柱の渡日を、イエスのエルサレム行きと重ね合わせて見ることはあながち無理ではないように思える。いや、東柱自身がイエスの生き様を強く意識しており、進んで苦難の道を歩んで行ったように思えるのである」と言います。

 金時鐘は「尹東柱はキリスト教徒としていかに生きるべきかをたえず自己に問いながらも、キェルケゴール、フランシス・ジャム、リルケなどの主知的な思索、とくに実存主義の色濃いキェルケゴールに傾倒した知性人でありました。それにもかかわらず書かれた詩がいたって平明であることも、胸にこたえることです。時代から政治から、はたまた祖国からさえ見捨てられたように生きている人たちにこそまず差し出したいという、意志的なメッセージを感じるからです」と述べています。

 浩瀚(こうかん)な伝記の最後に尹東柱の「序詩」を引用して、宋友恵は「闇が濃くなればなるほど光はさらに明るみを増す。それと同様に、世の中が暗く混濁していけばいくほど、尹東柱の詩は清らかで清浄な人間精神がもつ美しさをいっそうあざやかに示すだろう。/今日もわれわれは彼のあの美しくもおそろしい詩句の前に立つ。するとわれわれの眼は忽然と輝きだす。そしてあたかも水の上に浮かび出るように現れるわれわれの醜悪さと罪深さを、はっきりさとることになる。おおよそ人のもつ澄んで清潔な精神とは、このように霊妙なものなのである」と閉じます。

 民族詩人であり、抵抗の詩人であり、キリスト者詩人であり、受難の詩人である尹東柱ですが、同時に、夭折した青春の詩人でもあります。

 私たち日本人が尹東柱を読み、語るとき、何よりも日本帝国主義が殺害した詩人のことを思い、伝えていかなければならないことは言うまでもありません。

 しかし、詩人・尹東柱をそれだけに閉じ込めるべきではありません。国家による殺害であれ、病死であれ、自殺であれ、限られた青春を全力で生き、その魂を言葉に載せて送り出した青春の詩人たちの希望と絶望、硬直と柔軟、痛み、儚さ、憧れを全面的に全身で受け止めて、心震わせ、涙のプリズムの彼方に明日を思い描くことは、後に残された者の特権であり、神聖な義務です。

 ラディゲやランボーのきらめきと蛇行のように、啄木や中也や道造の煩悶と苦闘のように、尹東柱が残した淡い切なさを瞳の中に微かに灯しながら、私たちは「混濁」した世の中の「醜悪さと罪深さ」に対峙することができるのです。

                                 [完]
*次回はアフガニスタンのミーナです。
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