2016年03月18日発行 1420号

【MDS学習講座/沖縄になぜ米軍基地が集中しているのか/日米の合作による「基地の島」】

 沖縄・辺野古への米軍新基地建設をめぐり、日本政府と沖縄の人びとの激しいせめぎあいが続く。そもそも、国土面積の0・6%にすぎない沖縄に、なぜ在日米軍専用基地の74%が集中しているのだろうか。今回は「基地沖縄」の形成過程をみていく。「オール沖縄」の闘いに連帯を深めるためにも、歴史から学んでほしい。

原点は沖縄戦

 アジア太平洋戦争において、日本国内で唯一の地上戦となった沖縄戦。軍隊と住民が混在する小さな島の中で3か月間にもわたる戦闘が続き、住民の4人に1人(沖縄島では3人に1人)が命を落としました。沖縄の米軍基地問題は、この沖縄戦を抜きにして語ることはできません。

 発端は1944年にさかのぼります。米軍の沖縄攻撃に備えて、日本軍は全島要塞化を強行しました。これは沖縄を守ることが目的ではありません。「国体護持」(天皇・皇族、戦争司令部、政財界の要人を守る)のために、米軍を少しでも長く沖縄に釘づけしようとしたのです。沖縄はいわば時間稼ぎの「捨て石」にされたのでした。

 米軍が上陸すると、日本軍が建設した飛行場や駐屯地は接収され、拡張整備された上でほとんどが今日に至っています。たとえば、読谷(よみたん)の北飛行場は米軍読谷補助飛行場、嘉手納の中飛行場は米空軍嘉手納基地、浦添の南飛行場は米海兵隊キャンプ・キンザー(兵站基地)になりました。

 いま問題になっている普天間基地(飛行場)は、これらの基地とは形成の経緯が異なります。戦闘がまだ続いていた45年6月、住民が収容所に入れられているうちに、米軍は土地を接収し基地建設を始めました。日本本土への攻撃拠点とするためです。戦時国際法であるハーグ陸戦法規は占領地における「私有財産の没収」を禁じています。米軍の行為は明らかな国際法違反だったのです。

 米軍に奪われた土地は住民生活の中心地でした。沖縄戦前の宜野湾村(ぎのわんそん)の地図をみると、現在の飛行場施設内には村役場や住居、病院、郵便局、商店、墓地、畑、国の天然記念物に戦前指定されていた「宜野湾並松」などがあったことがわかります。

 12月に入って住民が収容所から帰ってくると、自分たちの家や畑が知らない間に基地になりフェンスで囲まれていました。どうすることもできない住民は基地の周囲にバラックを建てて住むことを余儀なくされました。

 昨年6月、自民党若手議員の勉強会で作家の百田(ひゃくた)尚樹が「普天間基地は田んぼのなかにあった。周りには何も無い。そこに商売になるということで住みだした」と発言し、沖縄の人びとの怒りを買いました。ネトウヨ脳丸出しの放言ですが、いまでもネット上ではこれが真実であるかのように語られています。沖縄の歴史が知られていないがゆえに、このようなウソがまかり通ってしまうのです。


天皇メッセージ

 日本の敗戦後、米国政府内では沖縄の位置づけをめぐって意見の対立がありました。米軍は軍事拠点として引き続き確保したいと考えていましたが、国務省から反対の意見も出ていたのです。

 そんなときに、昭和天皇が側近を通してGHQ(連合軍総司令部)に自身の意向を伝えました。いわゆる天皇メッセージです。「米国が20年ないし50年、あるいはそれ以上、沖縄を軍事支配することは、米国の利益になるのみならず日本の利益にもなる」。天皇制を守る犠牲として沖縄を差し出したことは明らかでした。

 結局、米国政府は沖縄を長期的に保有して基地の拡大・強化を図る政策を採択します。1952年4月28日、日本はサンフランシスコ講和条約の発効により占領状態を脱し主権を回復しましたが、沖縄は本土から完全に切り離され、日米安保条約の下で「太平洋の要石」と呼ばれる基地の島と化していきます。

 1953年4月、米軍は土地収用令を公布して、強制的な土地接収を開始しました。その方法は、銃剣で武装した米兵に守られたブルドーザーが家屋を押し倒し、耕作地を敷きならしていくという暴力的なものでした。強制的に土地を奪われた住民は生活できません。坪当たりの年間軍用地料は「コーラ1本分にもならない」と言われるほど安かったのです。

 当然、沖縄の人びとは激しく反発します。立法院で議決した「土地を守る四原則」を掲げ、島ぐるみの反対闘争に立ち上がります。いまの翁長県政下での「島ぐるみ会議」の原点はここにあるのです。

基地があるゆえの苦痛

 軍政下の沖縄では、軍事政策がすべてに優先しました。住民は常に危険と隣り合わせの生活を余儀なくされたのです。たとえば、軍事基地が存在するがゆえの事故・事件の多発です。

 石川市(現うるま市)では米軍のジェット戦闘機が民家をなぎ倒した後、小学校の校舎に墜落。小学生11人と住民6人が死亡しました。読谷村では軍用ヘリコプターからのトレーラー落下により小学生が圧死。沖縄市の知花弾薬庫では毒ガス漏れが発生しました。米軍人・軍属による交通事故や窃盗・盗難・レイプ暴行事件などが頻発。米兵犯罪の摘発率が低いうえに、裁判でも米軍人が無罪になるケースがほとんどだったので、被害を受けた沖縄住民は満足な補償を受けることもなく、泣き寝入りをするしかないのが実情でした。

 こうした軍事優先政策の下、抑圧された沖縄の人びとが人権の回復を求め、基地のない平和な島を築くために「平和憲法」を持つ「祖国日本」に復帰することを望むようになったのは当然のことでした。粘り強い闘いの末に、1972年5月15日、ついに復帰が実現します。

 しかしそれは沖縄の人びとが望んだ「基地なし・本土並み」の返還ではありませんでした。しかも日米両政府の間では、緊急時の核兵器持ち込み、基地の自由使用、返還時の費用替わり補償などの「密約」が交わされていたのです。米軍用地は安保条約にもとづき、日本政府が土地所有者から土地を借り受けて米軍に提供する形に変わりました。

 復帰後も、米軍や米兵による事件・事故は一向になくなりませんでした。そして、1995年9月4日、女子小学生が3人の米兵に暴行されるという凶悪事件が発生します。沖縄の人びとは怒りを爆発させました。1995年10月21日、宜野湾市の海浜公園で開催された「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」には8万5千人が結集し、復帰後で最大規模の闘いとなりました。

 こうした闘いが世論と日米両政府を動かし、1996年年4月の橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使による「普天間飛行場の全面返還」共同会見につながります。ただし、日米両政府は「5年から7年以内に全面返還する」といいながら、実は県内での代替施設の建設を条件にしていました。その移設先が名護市の辺野古沿岸域であることが明らかになってから、名護市民・沖縄県民の20年にわたる闘いが始まったのです。

「オール沖縄」の闘い

 実は、日本政府にとって辺野古新基地建設は自衛隊の海外派兵の出撃拠点づくりという意図があります。戦争国家路線を突き進む安倍政権は、警視庁機動隊を使って反対する市民を排除するなど、きわめて強権的な手法で基地建設を強行しようとしました。

 しかし、沖縄の人びとは屈しませんでした。2014年11月、翁長雄志(おながたけし)・那覇市長が県民の願いを背負って県知事選挙に立ち、「基地容認」の現職知事を10万票の大差で破って勝利しました。この頃から、新基地建設反対の県民運動は「オール沖縄」と呼ばれるようになります。

 さすがの安倍政権も「島ぐるみ闘争」の再来を無視できなかったのでしょう。辺野古をめぐる一連の訴訟で裁判所の和解案に応じ、埋め立て工事の中止を表明しました。これは強権的手法の敗北を意味します。闘いの力が政府を追い詰めたのです。

 ただし、安倍晋三首相は「辺野古が唯一の選択肢」という方針自体は変えていません。今こそ沖縄に連帯した闘いを強めるときです。辺野古への新基地建設を阻止し、普天間基地の即時閉鎖・返還を実現しましょう。

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