2016年05月20日発行 1428号

【非国民がやってきた!(232)ミーナ(4)】

 アフガニスタン女性革命協会(ジャミアット・ザン・インカラブ・アフガニスタン、英語の略称RAWA)という名称をいつ使い始めたか定かではありません。1976〜77年、活動を始めた時期にすでに使っていたようです。

 第1の原則は民主主義です。一度は選挙が行われたとはいえ、それは続きませんでした。アフガニスタンには民主主義が欠如していました。RAWAは政治的民主主義を実現する課題とともに、組織内民主主義についても議論を重ね、民主主義の実践として徹底討論と、できる限りの全員一致を目指しました。

 第2の原則は男女平等と社会正義のための闘争です。穏健な西欧型民主主義の試みの後も、アフガニスタンの性差別は根深く、むしろ性差別が拡大再生産されるような状況でした。RAWAは女性による女性のための団体で、教育、法的権利、医療、貧困と暴力からの自由をめざしました。ミーナはフェミニズムを意識していました。

 ミーナのパートナーだったファイズが毛沢東派のアフガン解放機構(ALO)のリーダーだったため、一部の文献ではRAWAを毛沢東派社会主義組織だと決めつけています。しかし、RAWAはALOと組織的に結び付きを持ちませんでした。フェミニズムの立場での女性解放が中心課題だったからです。女性団体は男性団体の下部組織であるべきだと考える男性が、RAWAをALOと見たのでしょう。

 初期のRAWAのニュースには毛沢東派からの影響があるという指摘もあります。ミーナがファイズから影響を受けたことは当然のことでしょう。しかし、RAWAが組織として毛沢東派社会主義であるという指摘には意味を見出すことはできません。

 アフガニスタンでは女性の権利が極端に制限されていましたから、RAWAは秘密組織とならざるをえませんでした。このことがRAWAの主張に対する誤解の種となったかもしれません。何しろRAWAを王党派(王政復古派)だと決めつける文献さえ見られます。RAWAは「毛沢東派社会主義・王政復古派」という奇妙な存在だったのでしょうか。これらはRAWAの立場がどうであったかではなく、論者がRAWAをどう見たかったかを示すにすぎません。

 RAWAはカブール大学の中で生まれ、カブールの女性たちのための識字教室をつくり、やがてヘラート、ジャララバード、マザリシャリフにも広げました。実際に識字教室を運営することで女性の現実が見えてきました。女の子が勉強することに父親が反対します。夫が反対します。この壁を乗り越える闘いが続きました。

 RAWAは「シャブナメー(夜の手紙)」というチラシを作りました。識字教室を知らせることもありましたが、政治的意見を述べるための手段でした。

 1977年、ソ連支持のカルク派とパルチャム派が勢力を強め、大学、軍、政府職員に支持を広げていました。反対勢力の政治活動は危険にさらされていました。RAWAは政治的立場と、女性組織であることと、二重の危険状態にありました。それでもハマム(共同浴場)での「ナン」と呼ばれる女性たちの集まりに出かけて、RAWAの宣伝を続けました。ミーナは大学2年生の時に大学を辞めて、RAWAの活動に専念することにしました。

 1978年4月27日、カルク派とパルチャム派の人民民主党がカブールの国防省と国営放送局を占拠し、アフガニスタン4月革命がはじまりました。モハメド・タラキを指導者とする人民民主党は「軍事革命評議会」を名乗り、権力を手中にしました。

 アフガニスタン4月革命の歴史的評価については現在も論争があります。先進的な人民民主主義革命であり、民主化、女性の社会進出が目指されたという見解もありますが、革命評議会に抵抗する者は見境なく身柄拘束されました。教授、弁護士、医者、作家、教師など知識人が軍事基地に連行され、帰ってきませんでした。流血のアフガニスタン史の始まりです。

 ファイズとミーナの身にも危険が迫り、身を隠しました。転々と居場所を変えてRAWAメンバーとの連絡を確保しました。

 ミーナは「今日から私たちは女性とアフガニスタンの解放のために闘う組織です」と覚悟を定めました。
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS