2016年07月29日発行 1438号

【非国民がやってきた!(237)ミーナ(9)】

 創設者のミーナが殺害され、危機に陥ったRAWAはマラライ病院の開設・運営に奔走する中、組織の再編を余儀なくされました。

 というのも、RAWAスタッフも殺害者に協力したからです。小さな組織のため外部の協力者に頼らざるを得ませんでした。通訳や運転手がいなければ移動も容易ではない社会です。このため外部の通訳を組織内に入れたことが悲劇の一因でした。

 このためRAWAは、外部の協力者とRAWA内部との間に明確な垣根を設定せざるを得なくなりました。

 RAWAは、パキスタンにおけるアフガン難民のために孤児院や学校を運営してきました。民主的教育を施して、自由や平等を教えました。RAWAの学校を卒業した生徒たちに活動家に育ってもらい、男性には協力者としてRAWAを支えてもらう体制を整えました。

 時代はいっそうの混迷に向かいました。1989年、ソ連軍の撤退により、アフガンに平和が訪れるかと期待されました。ところが、1991年、湾岸戦争と呼ばれたアメリカのイラク攻撃によって世界の関心はイラクに集中し、アフガンを忘れがちとなり、難民支援は停滞しました。ソ連撤退後も政権を握ったナジブラ傀儡政権には統治能力がなく、アフガンは内戦状態となりました。1992年、ラバニ政権が成立し、マスードがカブールを支配しました。これに対して、ヘクマティヤルはカブールに向けたロケット弾攻撃で市民を殺戮しました。

 ヘクマティヤル、ドスタム、サヤフ、ラバニ、マスードといった戦争屋が各地を分割支配し、互いに戦争に明け暮れました。殺人、処刑、強姦、強盗、誘拐の嵐が吹き荒れ、女性たちには暗黒の時代が続きました。

 難民支援が停滞したため、RAWAはマラライ病院を継続できず、1994年に病院を閉じて、小さな診療所の支援にとどめざるをえなくなりました。

 RAWAは学校教育に力を入れましたが、小さな女性団体にできることは限られました。周辺諸国の援助でつくられた「マドラサ」と呼ばれるイスラム原理主義教育の学校が、女性差別や「ジハード」を子どもたちに刷り込んでいました。その中から、パキスタンの支援を受けた「タリバン」という過激な勢力が生まれ、あっという間に大きな力を手にし、1996年、軍事力でカブールを制圧しました。極端なシャリア法解釈のもと、恐怖支配が始まりました。人種差別と女性差別がいっそう激しくなりました。女性の誘拐、殺人、ブルカの強制、女性が学校に通うことへの妨害が日常化しました。タリバン時代に女性への抑圧に抵抗した女性団体はRAWAだけです。

 タリバン政権は国際社会からの批判を浴びるや、いっそう強圧的な支配を行い、教育統制、テレビの禁止、博物館の破壊へとエスカレートし、ついに2001年、バーミヤンの絶壁に掘られた世界最大の仏像を破壊する暴挙に出ました。これにより国際社会からの批判は強まりましたが、女性や子どもの救済は進みませんでした。RAWAはアフガンにおける女性と子どもの苦境を懸命に情報発信し続けました。

 2001年の9・11は状況に大きな変化を与えました。アメリカを中心とする連合国がタリバン政権を崩壊させ、アフガンに「民主的な」新政権が誕生したからです。しかし、新政権の中枢にはアメリカの傀儡人物やかつての戦争屋たちがひしめき、「民主的」と言っても女性に対する抑圧が続きました。

 タリバン政権崩壊後、多くの難民がアフガンに帰還しました。しかし、女性の自由と人権を掲げるRAWAはすぐには帰還できませんでした。カブールでは女性の自由と人権は抑圧されたままだったからです。

 新政権は女性解放など眼中にありませんでした。タリバンの残党や戦争屋たちが闊歩するカブールの街路は、女性にとっては相変わらず危険に満ちていました。国際社会の支援で女性政策が策定され、女性の就業や教育に一定の前進が見られても、しばしば妨害行為が起きています。

 とはいえ、2016年、RAWAはその活動をカブールに移し、アフガン内部で女性の権利を求める闘いは新しい局面を迎えました。

 アフガンに平和と民主主義を、女性と子どもたちに自由と平等と教育を求めるミーナの娘たちの新たな闘いが始まったのです。

<参考>
RAWAと連帯する会ウェブサイト http://rawajp.org/
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS