2016年08月05日発行 1439号

【未来への責任(205)ウトロ 居住の権利求める闘い】

 京都府の南部、宇治市に「ウトロ」と呼ばれる在日朝鮮人集住地域(約50世帯150人)がある。

 太平洋戦争中、航空戦力の増強のため「京都飛行場」の建設が計画された。集められた2000人の労働者(うち1300人が朝鮮人)を収容するため、6畳の板の間と3畳の土間という風雨を凌(しの)ぐだけの粗末な長屋建ての飯場が作られた。1945年8月の敗戦で、そこで暮らしていた朝鮮人労働者と家族は何らの補償も受けることなく放置され、路頭に迷う人びとが飯場跡に集落を形成した。

 このことが「不法占拠」とされ、戦後30年余り上水道も引かれず(現在も下水道は未敷設)、大雨が降ると必ず床上・床下浸水の被害が生じるなど劣悪な環境に置かれた。1987年、土地が無断で売却されて立ち退き訴訟が提起され、地裁・高裁は家屋の取り壊しと退去を命じた。2000年、最高裁が上告を棄却。戦後も差別と排除の日本社会で暮らすウトロ住民の「居住の権利」はさらに侵害され続けることとなる。

 この事態を迎えて住民と「ウトロを守る会」は国連人権委員会に「居住の権利」を求めて訴え、2001年9月に社会権規約委員会の総括所見で初めて取り上げられた。同じ時期、国連は「植民地主義が起きたところはどこであれ、いつであれ、非難され、その再発は防止されねばならないことを確認」し、「この制度と慣行の影響と存続が今日の世界各地における社会的経済的不等を続けさせる要因である」として植民地主義の根絶をめざすダーバン宣言を採択していた。

 2005年7月、国連の「現代的形態の人種主義、人種差別、外国人嫌悪および関連する不寛容に関する特別報告者」ドゥドゥ・ディエン氏がウトロを訪れ、「(日本)政府は住民と対話を始めるとともに、当該住民を強制立ち退きから保護し、かつ当該住民が住むところを失わないようにするための措置を直ちにとるべきである。ウトロのコリアン住民が植民地時代に日本の戦争遂行のための労働にかり出されてこの地に住まわされた事実に照らし、またそこに住むことを60年間認められてきたことを考慮し、政府はこれらの住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべきである」との報告書を提出した。

 これを機に韓国にも支援が広がり、住民の手で土地を確保できたので、行政の責任で公営住宅が建設されることが決まり、建設予定地の住宅の解体・撤去が始まった。課題は残されているが、戦後70年を経て、犠牲を強いられてきた住民にようやく「居住の権利」が保障されることとなったのだ。

 ウトロの集落の入口には今も「オモニのうた」の看板が掲げられている。一節を紹介する。

 いやや!/どんなことがあっても 私はよそへ行かないよ/あの世からお迎えが来るまでは/なんでか わかるかね?/それはね/ここは私の「ふるさと」なんだ

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 中田光信)

ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS