2016年08月05日発行 1439号

【MDS学習講座 自民党改憲草案の狙い/「公益」の名の下に人権を制限】

 参院選の結果を受け、安倍晋三首相は自民党の「憲法改正草案」をベースに改憲論議を進めたい意向を示している。今回のMDS学習講座は自民改憲草案の危険な正体について考える。

 憲法改正をめぐっては、9条の改正や緊急事態条項の創設に関心と警戒心が向けられている。しかし、自民党が2012年に公表した「日本国憲法改正草案」(以下、草案)は、現行憲法のほとんどの条項を改正しようとするものであった。しかもそれは、近代立憲主義を否定し、憲法から「国家権力を縛るための法」という性格をはく奪する代物である。ここでは、草案の人権規定に的を絞って批判を加えていくことにする。

条件付きの権利へ

 草案は、12条と13条のような人権に関する総括的な規定の中に、現行憲法の「公共の福祉」に代えて「公益及び公の秩序」という新たな文言を挿入している。

 現行憲法における「公共の福祉」の解釈として日本の公法学会で通説とされてきたのは、憲法学者の宮沢俊義の説である。宮沢説によれば、個人の尊厳と基本的人権の尊重を指導理念とする日本国憲法は、個人に優先する全体の利益を想定していない。したがって、個々の人権を制約する根拠となりうるのは、多数または少数の他人の人権だけである。この人権相互のあいだに生じる対立の調節を図るための原理が「公共の福祉」にほかならない。そして、現行の12条と13条は自由権相互の調節を、22条と29条は社会権による自由権(営業の自由と財産権)への制約を定めたものである。

 草案が「公共の福祉」をすべて「公益及び公の秩序」へ置き換えた理由について、自民党が草案の解説文書として発表した「Q&A」はこう述べている――「学説上は『公共の福祉は、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない』などという解釈が主張されています。今回の改正では、このように意味が曖昧である『公共の福祉』という文言を『公益および公の秩序』と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」。つまり、「個々人の人権を超えた公益」(国益)によって人権を制約しようとしているのである。

 こうした文言が人権の総括的規定である12条と13条に盛り込まれると、憲法に記されているすべての基本的人権はもはや「基本的」なものではなくなり、それらを制約する「公益」に従属する権利、条件付きの権利へと変質してしまう。

「個人」から「人」へ

 自民党の草案は、現行の13条にある「個人」を「人」へと置き換えている。これは一見すると無害な変更のように思えるが、そこには重大な意味が隠されている。

 日本国憲法は、個人が国家という「全体」のために犠牲になり、個人(特に女性)が家のために犠牲になるという苦い歴史を経て制定された。だから、集団の権力に抗して尊重されなければならないのは、抽象的な「人」ではなくて「個人」でなければならない。現行憲法が13条で個人の「尊重」を、24条で個人の「尊厳」を謳っているのは、日本の家制度と戦時体制のもとで人びとが経験した苦難と屈辱を背景にしている。これが、利己主義とは異なる日本国憲法の個人尊重主義である。

 自民党内の保守派や日本会議などは、この個人尊重主義をことのほか嫌悪する。実際、草案起草委員会の事務局長を務めた自民党の礒崎陽輔・参議院議員は13条の改正案に関連して、「『個人として尊重される』という部分については、個人主義を助長してきた嫌いがあるので、今回『人として尊重される』と改めました」と述べている。しかし、「人」は「モノ」ではないのだから「尊重される」のは当たり前であって、それをわざわざ憲法の中に書き込む意味はない。改正案は、現行憲法の個人尊重主義をこそ標的にしている。

人身の自由の空洞化

 現行憲法は18条で、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」として人身の自由(身体的拘束からの自由)を謳うとともに、31条以下で、刑事訴訟法を思わせるような詳しさでもって適正手続主義、令状主義、迅速な裁判の保障、刑事被告人の権利などを定めている。そもそも憲法が国家権力から個人の自由を保護するための法である以上、こうした詳しさは当然のことであるが、日本国憲法は平和主義を原理にしているので、徴兵制もまた現行18条に違反することになる。

 それに対して草案18条は、人身の自由を「社会的又は経済的関係」に、つまりは私的人格どうしの関係に限定しており、公権力が〈法的関係〉によって個人を拘束することを許容する文言となっている。これは、「緊急事態」における公権力への万人の服従義務(草案99条3項)に整合する文言である。

「営業の自由」は絶対

 現行22条1項で保障されている「職業選択の自由」には、実は営業の自由もふくまれており、この自由に対して現行憲法は「公共の福祉に反しないかぎり」という制約を課している。つまり、営業の自由は、それが人びとの人権を侵害しないかぎりにおいて認められている。営業の自由への規制は、人びと生命や健康を守るためのものと、社会的・経済的弱者を保護するための規制とに大別される。

 ところが、営業の自由は改正草案22条1項によって、「公益及び公の秩序」どころか「公共の福祉」による制約からも解放されて無制限に承認されている。どこに原発を建てようが、どれほどの人を解雇しようが、いずれも営業の自由という神聖な権利によって正当化される。新自由主義の規制緩和が憲法上の原理にまでまつり上げられるのである。

家族と新自由主義

 自民党や日本会議は、憲法24条の家族規定を9条とならんで目の敵にしている。彼らは、離婚と1人親家庭の増加、晩婚化と少子化、介護殺人などについて、婚姻と家族における両性の平等および個人の尊厳を謳った24条のせいだと主張する。諸悪の源泉は憲法の個人尊重主義にあるというのである。そこで、改正草案24条1項は「個人」ではなくて「家族」を「社会の自然かつ基礎的な単位」だと規定している。そして、現行の24条2項が婚姻を「両性の合意のみに」もとづいて成立するとしているのに対し、草案の同条2項は、この「のみ」という語を削除している。婚姻は当事者の合意だけでなく親の同意をも必要とすると言いたいのだろう。戦前の家父長制家族のように、個人は家(いえ)という集団のなかに埋没させられる。

 加えて、草案の24条1項は、「家族は、互いに助け合わなければならない」という、明らかに道徳の領域に属する義務を法の中にもち込んでいる。家族の成員が助け合うのは望ましいことだが、それは法律によって強制されるべき事柄ではない。家庭内暴力のせいで離婚することや、何らかの理由により親を支援することのできない成人の子どもは、憲法に反するとでもいうのだろうか。

 しかし、草案24条は単なる復古主義の表われではない。それはむしろ、社会保障(「公助」)を縮小し、生活保障を家族による「自助」または「共助」にゆだねるという新自由主義の表われでもある。

戦争協力と自助を強要

 草案102条は、現行の99条にある公務員による憲法尊重・擁護の義務の規定に先立って、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という新たな条項を設けている。ここには、「国家権力を縛る法」から「人びとに戦争協力と自助を強要する法」への憲法の変質が明瞭に示されている。

 「公益」と称されるグローバル資本と国家の利益のために、人びとが自分たちの人権と生活を犠牲にしながら仕えるという、草案が描く日本社会の将来像を決して実現させてはならない。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(現行12条)という義務は、憲法が私たちに課している最も崇高な義務である。

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