2016年08月12日発行 1440号

【非国民がやってきた!(238)ジョン・レノン(1)】

 1980年12月8日午後10時50分、ニューヨーク市72丁目のダコタハウス正面のアーチ門前で、白いリムジンからヨーコ、続いてジョンが降りて、歩き始めました。

 ジョンはミキシングを終えたばかりのヨーコの新曲「Walking On Thin Ice(薄氷を踏んで)」のカセットテープを持っていました。

 ゲートをくぐると、管理人室のドアに近づいたジョンの後ろから「レノンさんですか」と声がかけられました。

 ジョンが振り向くや、その声の主は38口径リボルバーを発射しました。ホローポイント弾が5発。そのうち4発がジョンの背中に、1発が腕に命中しました。

 「撃たれた。撃たれた」とうめき声を上げながら階段を上ろうとするジョンの後ろで、ヨーコが「ジョンが撃たれた!助けて!」と叫びました。

 しかし、ジョンは崩れ落ちるように床に倒れました。

 ダコタハウスのドアマンが駆けつけましたが、おびただしい出血で手の施しようがありません。警察直通の警報ボタンを押すと、2分もたたずにパトカーが到着しました。

 パトカーでセント・ルークス・ルーズベルト病院に運ばれたジョンは心臓マッサージや輸血の手当てを受けましたが、午後11時15分、帰らぬ人となりました。

 「こんなこと、うそだと言って、嘘だと言ってちょうだい」。

 動転し、泣き叫んで病院に着いたヨーコがジョンの死を告げられ、放心状態で病院を出た時の写真が全世界に配信されました。

 20世紀最高のポップ&ロック・グループ、ビートルズを率いたジョン・レノンは、1946年10月9日、リバプールでアルフレッド・レノンとジュリアの子として生まれ、40歳で亡くなりました。

 ジョンが16歳で結成したクオリーメンというバンドがキャバーン・クラブで演奏をはじめ、やがてポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンを加え、1960年8月、ハンブルク・ツアーの時にバンド名をビートルズに改めました。

 1963年2月、「Please Please Me」がナンバーワン・ヒット曲となり、以後、ビートルズの爆発的大ヒット、大活躍が始まります。

 ビートルズ解散後、ジョンとヨーコはニューヨークで暮らしますが、アメリカはヴェトナム戦争のさなかであり、反戦運動が巻き起こっていました。

 1960年代後半、ビートルズを先頭に世界を席巻したロック・ミュージックは若者たちの意識改革をもたらし、公民権運動や女性解放運動とともに、全米を揺るがしました。1970年初頭、ヴェトナム戦争が泥沼に陥り、反戦運動が激化します。

 そこにやってきたのが史上最高のロック・スターのジョンだったのです。何かが起きないはずがありません。誰もが期待と不安に身を震わせました。緊張がニューヨークを鷲掴みにしました。

 史上最大の帝国アメリカと史上最高のロック・スターの激突を、いま、私たちはどのように考えればよいのでしょうか。

 天才の名をほしいままにしたジョン・レノンの優しく、悲しい物語を追跡してみましょう。

<参考文献>
巻口勇次『永遠のジョン・レノン』(三修社、2008年)

ザ・ビートルズクラブ編著『ジョン・レノン全仕事1 ア・ハード・デイズ・ナイト』(小学館文庫、2010年)

ザ・ビートルズクラブ編著『ジョン・レノン全仕事2 イマジン』(諸顎間文庫、2010年)

里中哲彦・遠山修司『ビートルズの真実』(中公文庫、2014年)
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