2016年12月30日発行 1459号

【未来への責任(215)艦砲射撃犠牲者の再調査へ 釜石市】

 岩手県釜石市は1945年の7月14日と8月9日に2度の艦砲射撃を受けた。市はその犠牲者の再調査を行う「艦砲戦災犠牲者特定委員会」を今年発足させた。釜石市では1976年に「釜石艦砲戦災誌」を発行し、753人の犠牲者名簿を公表した。しかし、その後の民間調査では1050人の犠牲者がいたとの結果が出ており、戦争体験者を中心に再調査を求める声が上がっていた。

 私たち「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」は、1995年9月に韓国人犠牲者の遺族の裁判を起こすにあたり、釜石市の現地調査を行った。その際、「艦砲戦災誌」の犠牲者名簿に原告らの肉親の名前(創氏改名)があることをつかんだ。その後、地元の郷土史家である昆勇郎(こんゆうろう)さんの協力を得て、石応禅寺(せきおうぜんじ)の過去帳を調査し、朝鮮人労働者の記録が残っていることが分かった。

 理由は不明だが、「艦砲戦災誌」には一部の朝鮮人労働者の氏名しか掲載されていない。釜石市による犠牲者認定は日鉄釜石訴訟のいわば宿題であった。しかし、1997年に新日鉄と和解解決し、会社が全員を殉職者と認め、慰霊祭も執り行われ、東京で国を相手取った訴訟がなお継続中であったこともあって、2007年に韓国の遺族とともに訪問したのを最後に、釜石から足が遠のいていた。

 そんな私を再び釜石と結びつけたのが、東日本大震災だった。裁判の証人になってくれた元釜石製鉄所所員の千田(ちだ)ハルさんの無事は確認できたが、昆勇郎さんは津波にのまれて亡くなったことが分かった。釜石のために何かできないか。震災後、私はボランティアに通うようになった。それは現在も続いている。ボランティアの後でよく千田さんのお宅に伺った。震災前年の8月にオープンしたばかりの「釜石市戦災資料館」は津波で破壊され、戦争体験者仲間が亡くなったことを千田さんから教えていただいた。

 昨年7月のことだ。新聞記事で釜石の市民団体が「戦災資料館」の再建を求めて市長に申し入れをしたことを知った。すぐに千田さんに連絡し、次回はぜひ参加するので声をかけてほしいとお願いした。そして、私も釜石市議会に「戦災資料館」の再建と朝鮮人労働者も含めた犠牲者の再調査を求める陳情書を提出した。今年の7月13日、市長への申し入れを行うので来られないかと釜石の市民団体から連絡があり、私も参加させていただいた。

 釜石市はまだ多くの市民が仮設住宅で暮らしている。震災復興という大きな課題を抱えながらの再調査は相当困難が予想される。しかし、朝鮮人を含むすべての犠牲者を再調査するという基本姿勢は明確だ。市の担当者は私の持つ朝鮮人犠牲者の情報を送ってほしいと言ってきた。これで宿題を果たすことができそうだ。

 歴史の清算は「補償」だけではない。名誉回復や事実を後世に伝えるということも含む幅広い内容をもったものだ。津波、戦災で多大な犠牲を受けながら、歴史を受け継ぎこの地で生き続ける釜石市民から今後も学んでいきたい。

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 山本直好)

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