2017年06月09日 1480号

【非国民がやってきた!(258) 土人の時代(9)】

 日露の政治交渉の結果、アイヌモシリ(エゾ)は日本領とされ北海道と命名されました。サハリン(樺太)やクリル(千島)を交換した条約に見られるように、日露両政府にとってアイヌモシリは交換・取引の対象でした。そこに居住するアイヌ民族の存在を軽視し、その意思をまったく無視しました。

 第1に、明治初期に日本政府が推進した屯田兵政策は「北の守り」を固めるための軍事目的と、北海道における農業開発を柱としました。そのため北海道全体を「国有地」とし、入植者や企業に国有地払い下げを行うことで、開発政策が進展しました。その結果、現在でも北海道の約半分が「国有地」です。

 1000年以上の歴史を刻むアイヌモシリ(アイヌ民族の大地)を日本政府の都合で勝手に「国有地」にしたのです。この時の「論理」は不明確です。一方で、日本政府がよく用いる「無主地先占」の法理があります。竹島や尖閣諸島について現在の日本政府が主張しているのは、竹島や尖閣諸島はどこの国にも属さなかったから日本領にした、という理屈です(ここではその当否について立ち入りません)。竹島や尖閣諸島には住民がいませんでしたが、北海道にはアイヌ民族が居住していました。先住民族の大地に対する侵略と略奪と言わざるをえません。

 他方で、日本政府はロシアとの関係では「無主地先占」の法理を用いていません。逆に、1850年代、徳川幕府が「エゾにはアイヌが住んでいる。アイヌは日本人である。それゆえエゾは日本領である」という理屈を用いたのです。明治維新政府もこれを継承したものと言えます。ロシア側は遥か遠方の極東について正確な情報を有していなかったため「アイヌは日本人である」という主張に対抗することができなかったのでしょう。

 第2に、日本政府(北海道開拓使)はアイヌ民族を「平民」として戸籍制度に組み入れましたが、同時に「土人」と蔑みました。日本人と異なる宗教儀礼や入墨、耳環などアイヌ伝統の文化を「陋習」とみなしました。

 そして1899年、「北海道旧土人保護法」が制定されました。アイヌ民族に対する「保護」を名目としたと言われますが、疑問です。同法には、土地、医薬品、埋葬料、授業料の供与、供与に要する費用にはアイヌの共有財産からの収益を用いること、アイヌの共有財産は北海道庁長官が管理すること、自由な土地売買や永小作権設定の禁止などが定められました。

 アイヌ民族は狩猟生活でしたから(農耕に従事した時代や地域もありますが)、土地を与えられても耕作に不慣れなため、農業経営に失敗する例が続出しました。旧土人保護法の結果、実際に起きたことは、アイヌの土地の没収、アイヌの収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の風習の禁止、日本語使用の義務(アイヌ語の否定)、日本的氏名への改名による戸籍への編入(創氏改名)でした。創氏改名は琉球や朝鮮半島で再現されます。

 「旧土人学校(アイヌ学校)」が各地に設立され、日本語で教育が行われました。アイヌ民族の文化の否定です。地租改正により日本人(大和民族)に土地所有権を奪われて多くのアイヌが移住を余儀なくされました。

 「旧土人」という呼び名を法制化したこの法律は、なんと1997年にアイヌ文化振興法が制定されるまで、98年もの長期にわたってアイヌ民族に対する抑圧法として機能しました。アイヌ民族に対する植民地主義と差別の中核だったのです。

 第3に、アイヌ民族に対する侵略と差別の象徴的事例として、学問に名を借りた墓暴きと遺骨の略奪を紹介しておきましょう。1995年の北海道大学人骨事件は大きく報道されましたが、全国の大学にはアイヌの遺骨が多数保管されています。北海道大学の例では1939〜56年にかけて、研究の名目で北海道、千島、樺太のアイヌ民族の墓地を発掘して人骨を収集しました。本来なら墳墓発掘罪(刑法189条)と遺骨領得罪(刑法190条)です。盗掘もあったようですが、時には警察を動員して抵抗を排除し堂々と墓暴きを強行しました。まさに「土人」視の帰結と見るべきでしょう。

<参考文献>
植木哲也『学問の暴力――アイヌ墓地はなぜあばかれたか』(春風社、2008年) 
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