2017年07月07日 1484号

【非国民がやってきた!(260) 土人の時代(11)】

 琉球処分(琉球併合)は琉球王国に対する植民地化です。

 後田多敦は、琉球王国の高官等が清国に脱出して、植民地化に抵抗した「琉球救国運動」の歴史を詳しく追いかけています。当然のことながら、独立国家である琉球王国に対する日本の侵略が俎上に乗せられます。植民者の側と、抵抗する側の双方をていねいに追いかけて、琉球処分の経過を明らかにしています。処分される側でも、処分を受け入れる立場もあれば、徹底的に抵抗する立場もあります。それらを視野に収めながら、幸地朝常(向徳宏)を中心とした抵抗を浮上させます。

 後田多は「琉球救国運動」を琉球史に閉ざすのではなく、日本が中心となった東アジア植民地主義とこれに対する東アジア民衆の抵抗を射程に入れて「抗日の思想と行動」を浮上させます。まさに「抗日」――その後、台湾、朝鮮半島、東南アジア各地で展開された抗日の先駆的形態です。「抗日」とは、大日本帝国による侵略が、アジア各地の人民に余儀なくさせた思想と運動ですが、そこからアジア人民の主体の練り直しも始まります。反帝国主義の主体形成です。

 従って、清国亡命だけではなく、南清貿易や徴兵忌避なども救国・抵抗運動の視点で位置づけ直しがなされます。

 琉球救国運動はいつ始まり、いつ終わったのでしょうか。その時期についても再考が始まります。後田多は、幸地朝常の清国亡命(1876年12月)から儀間正忠の福州引き揚げ(1937年7月)までの約半世紀としているからです。時期の再考は救国運動の内容と方法の理解にも影響します。

 後田多は次のように述べます。

 「本書では、『琉球救国運動』と『抗日』の視点から、近代史を見直すという課題に取り組んできた。なかでも琉球国滅亡過程における黒党と白党の対立、そして尚王家を中心とした丸一店などの経済活動、徴兵忌避を事例として取り上げた。政治だけでなく、経済や社会的な側面から、沖縄社会のなかにおける運動の広がりを提示できたと思う。」

 「救国運動の敗北や根本的対立のしこりは、運動に対するマイナスイメージを付与し、タブー視する理由ともなった。しかし、救国運動に参加した人々が中国で滞在中に文化や諸芸を学び、それを沖縄にもたらしたという事実もある。長期間にわたる人々の往来は、沖縄の文化にも影響を刻んだ。この関係の蓄積や抗日運動の経験は沖縄と東アジア各地との間で、現在でも続く友好関係の基礎をつくっているものである。」

 私たちは「150年の植民地主義」を把握する必要がありますが、植民地主義や差別だけに焦点を当てるのではなく、植民地化に対する民衆の抵抗にも視線を送る必要があります。琉球救国運動は、アジア諸国で生起した「抗日運動」の先駆的形態ということができます。琉球救国運動、朝鮮独立を目指した3・1宣言と運動、そして中国における5・4運動などを結ぶ力学を測定しなくてはなりません。

 後田多は、琉球救国運動の全体像に迫り、実証的に解明する任務に専念しています。それゆえ、「今こそ抗日を」などと声高に訴えているわけではありません。しかし、理論の射程は琉球の現在および将来にまっすぐ及んでいます。とはいえ、そこまで先走りするのはやめましょう。

 琉球併合の下で生じた事態を最低限確認しておきましょう。第1に、沖縄県知事の設置は植民地総督による支配の始まりでした。謝花昇の闘いもこの視点から考えることになります。第2に、人類館事件は、宗主国人民による植民地人民に対する差別の確立を意味します。方言札は植民地人民に対する「同化」の手段でしたし、後に朝鮮半島で行われた創氏改名の先駆的試みも行われました。第3に、沖縄戦の悲劇の意味も洗い直す必要があるでしょう。

<参考文献>
後田多敦『琉球救国運動――抗日の思想と行動』(出版舎Mugen、2010年)
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