2017年12月01日 1504号

【ミリタリーウォッチング 「志布志事件」と共謀罪 これが戦争国家づくり】

 今年の夏、「志布志事件」のシンポジウムに参加する機会があった。

 志布志事件とは、2003年4月の鹿児島県議選で起きたとされる公職選挙法違反事件で、警察による完全な「でっちあげ」であった。当選した中山信一県議が志布志町の集落の有権者に現金を配ったとして13人の市民が逮捕・起訴されたが(うち一人は裁判中に死亡し公訴棄却)、裁判では全員が容疑を否認。2007年2月23日、鹿児島地裁は、被告らの当初の「自白」には信用性がなく現金を配ったとされる元県議にもアリバイがあるとして被告全員に無罪判決を言い渡し、地検も控訴を断念した。

 事件は、捜査段階での虚偽の自白強要や、江戸時代のキリシタン弾圧を思わせるような「踏み字」行為、密室での異常とも言える長時間の取り調べ、長期間にわたる勾留など、権力による市民の人権侵害が大きな問題となり、取り調べの可視化実現に拍車をかけることにもなった。

シナリオどおりに自白強要

 この事件が起きたとされる志布志町の懐(ふところ)集落を訪れたのは、共謀罪法施行の数日前だった。村を案内してくださった元被告の方が「志布志事件は共謀罪そのもの」と口にされた。

 事件を知らないと、この言葉はいささか奇異に聞こえるかも知れない。03年の事件当時は初代°、謀罪法案が国会に提出されてはいたが衆院解散で廃案となったし、今回可決強行された法案(改正組織犯罪処罰法)では公職選挙法違反は対象からはずされている。

 共通するのは、そもそも「事件が存在していない」という点だ。日本の刑事法は犯罪の「既遂」が原則であるにもかかわらず、共謀罪法は計画段階(未遂段階)で市民を逮捕できる。刑事法の原則、体系が崩されてきていると言わざるをえない。また、「未遂」ということは必然的に物的証拠が乏しいわけだから、警察による捜査が「自白」偏重になりかねない。

 志布志事件の捜査では、警察がまず事細かに犯罪のシナリオを作成し、これを認めない市民にはすさまじい恫喝や暴力的な取り調べが繰り返され、自殺者まで出した。一方、ウソと分かっていても「自分がやりました」と自白さえすれば保釈を認めるなどの措置が取られている。

「普通の人」を突然逮捕

 共謀罪は「現代の治安維持法」と言われる。今、安倍政権が進める「戦争国家」づくりには、権力に対する市民の批判的な言動を萎縮させ、封じ込める効果のある統治システムが必要とされる。共謀罪法はまさしくそのような「効果」を持つ法律である。

 志布志事件の経験は、ごく普通の人びとが、ある日突然逮捕され、身に覚えのないことで「自白」を強要され、人生を破壊されていく過酷なドラマでもあった。が、人びとはその地獄の淵から立ちあがり、手をつなぎ、心をつないで権力の犯罪に立ち向かった。

 しかし、なぜ警察はでっち上げを必要としたのか、なぜ検察はそれを知りながら立ち止まることをしなかったのか、志布志事件の真相はいまだに明らかにされていない。そして被告とされた人びとへの真摯な謝罪は今もなされていないのだ。

 その意味でも志布志事件は終わらない(この事件をテーマとした本は複数出版されている。『志布志事件は終わらない』<木村朗、野平康博著、2016年11月 耕文社>が最も新しく出されたものである)。

藤田なぎ
平和と生活をむすぶ会

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