2019年04月19日 1572号

【非国民がやってきた!(304)土人の時代(55)】

 松島・木村編著『大学による盗骨』(耕文社)の第2部「アイヌの遺骨返還問題」には「アイヌ遺骨返還問題とDNA研究」(植木哲也)、「問われる日本人の歴史認識と先住民族アイヌの権利回復」(出原昌志)、「ドイツから『移管』されたあるアイヌの遺骨と脱植民地化」(小田博志)が収められています。

 アイヌ遺骨を利用したDNA鑑定の問題については本連載291〜292において検討しました。また本連載293〜295で紹介したカナダのステファニー・スコット論文もDNA鑑定の問題性を指摘しています。

 小田博志は北海道大学大学院文学研究科教授で、著書に『エスノグラフィー入門』(春秋社)、『平和の人類学』(法律文化社)があります。

 小田は、2017年7月31日の在ベルリン日本大使館におけるアイヌ遺骨「返還式」から説き起こします。遺骨を収蔵してきた「ベルリン人類学・民族学・先史学協会(略称BGAEU)」が、RV33と命名されたアイヌ遺骨を北海道アイヌ協会理事長に引き渡したからです。138年前に北海道から盗み出されたアイヌ遺骨が「返還」されたのですから画期的な出来事です。京都大学の対応を知る者から見れば、BGAEUの英断を称えたくもなります。

 しかし、小田は立ち止まって考えます。「そもそもなぜその遺骨が盗み出されたのか? 研究倫理とは何か? 研究機関の植民地責任とはいかなるものか? そもそも遺骨の『返還』とはどういうことなのか?」。――こうした問いを忘れるわけにはいきません。

 そこで小田は、1869(明治2)年に始まる「北海道」の「開拓」の歴史に立ち返ります。植民地化によってアイヌ民族の土地、資源、権利、言語、文化が奪われた歴史です。窪地や水の湧き出る所をアイヌ語でコトニと呼びますが、そのコトニ・コタンに北海道開拓使は試験農場を開き、それが札幌農学校を経て北海道大学になります。現在、札幌市西区の琴似や新琴似の由来です。

 (ちなみに、私が生まれたのは琴似の琴似神社のすぐそばで、そこには北海道開拓・屯田兵記念碑が設置されています。私はこの時の開拓農民・屯田兵=アイヌモシリへの侵略者の5代目に当たります。)

 1879年頃、ドイツ人旅行者でBGAEU会員だったゲオルク・シュレージンガーがやってきて、試験農場敷地内にあったコトニ・コタンの墓地に忍び込んで、一体の頭骨を盗み、ベルリンに持ち帰ったのです。ベルリン大学医学部教授のルドルフ・ヴィルヒョウはその頭骨RV33の測定結果を1880年の『民俗学雑誌』に報告していると言います。「学問」「研究」のために、夜中にこっそり墓地に忍び込んで盗掘をしたのです。

 忘れられていたRV33に関心が向けられたのは、2015年のウヴェ・マキノの著書での言及、そして2016年の毎日新聞ベルリン支局による報道のおかげだといいます。そこでBGAEUはRV33を日本大使館における「外交ルート」を通じて北海道アイヌ協会に「返還」し、RV33は2日後に北海道大学アイヌ納骨堂に移されました。

 BGAEU代表は、遺骨が当時の法に違反し、アイヌ・コタンの住民を無視して取得されたことを認めたそうです。しかし小田によると、BGAEUは盗骨という犯罪行為について謝罪していません。植民地主義による遺骨収集についての植民地責任の自覚もありません。しかも返還したアイヌ遺骨を「今後も研究対象とすることを勧め」てすらいます。

 RV33は北海道大学アイヌ納骨堂に「返還」されましたが、この施設はRV33の「故郷」ではありません。コミュニティはすでに解体され、存在しません。コトニ・コタンの存在は札幌市によって公認されていません。

 アイヌ納骨堂に収蔵されたアイヌ遺骨は2020年建設予定の白老の「民族共生の象徴空間」とされる「慰霊施設」に移管されることになっています。138年ぶりに故郷のすぐ近くの北海道大学に戻された頭骨が、2020年には遠い白老に送られてしまうというのです。

 なぜこのようなことになるのか――小田はここに「植民地主義の否認」を見ます。植民地主義の現実を見つめ、「真の脱植民地化のプロセスが動き出す」ことが必要です。
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS