2019年04月19日 1572号

【原発避難者への住宅提供打ち切り/コミュニティーを取り戻す闘いは続く/京都】

 「ここがすべての避難者運動の出発点になった」。原発事故避難者の支援を続けている「うつくしま☆ふくしまin京都」の奥森祥陽さんはこみ上げる思いを抑え、「お別れ会」の開会を告げた。3月31日、国家公務員宿舎「桃山東合同宿舎」(京都市伏見区)の集会所には避難者や支援者約60人が集い、最後の日を惜しんだ。

 国はこの日、福島原発事故の区域外避難者に国家公務員住宅を提供するのをやめた。福島県が使用延長の措置を取らなかったためだ。事故から9年目を迎える今も放射能汚染は消えず、避難が必要なのは変わっていない。

 半年前、子どもが転校しなくていいようにと近くの民間賃貸住宅に引っ越した避難者が振り返る。「事故後、各地を転々として、12年2月ここに来た。当時、2年ぐらい引きこもり状態だった。自治会の役員になって、話ができるようになった。団地の木々の手入れなどを通じて、生きている感じを取り戻した」。福島県いわき市に両親を残し、学習塾を閉め避難した。「人生を根こそぎ奪われた」と表現する喪失感は、ふるさとや仕事を奪われたことだけによるものではない。人と人のつながり、自分の存在を確かめられるコミュニティーをなくしたことが大きい。

 他の避難者も、見知らぬ土地での「孤立感」、「コミュニティーの喪失」に触れた。茨城県からの避難者は「事故後、放射能被害を口にする度に孤立した。子ども3人を連れてまったく知らない土地への避難。週1回子ども文庫があると聞いて来た。ここでは、何も言わなくてもわかってもらえる安心感があった」。

 合同宿舎は4階建ての集合住宅が15棟。そのうち6つの棟に避難者が入った。計114世帯、府内最大の避難場所となった。集会所はそんな避難者の集える場所だった。集会所に開設された「ももやま子ども文庫」は子どもたちをつないだ。「うつくしま☆ふくしまin京都」は、夏には納涼の夕べ、暮れには餅つき大会、春には桜まつりと当初から避難者をつなぐ場を作ってきた。子どもたちの学習支援もしてきた。

 宿舎の部屋は「こんなところに住むの」と口に出てしまうほど老朽化。国は取り壊す計画で、12年10月からは公務員の入居者はいなくなった。だが、避難者にとって安心できる新たなコミュニティーであったことは間違いない。

 震災後、府は福島県に支援の職員を送った。志願してそのバスに乗った奥森さん。帰りのバスは避難者と一緒だった。「避難先での安心を」と市民放射能測定所を開設し、食物の放射線量を測った。国や東電に対する損害賠償訴訟を支援する会もつくった。「一人も路頭に迷わせない」。避難者運動の原点だ。住宅と仕事、そしてコミュニティーがなくてはならない。各地で出された原発賠償訴訟の判決。国、東電の事故責任は認めても、「ふるさと喪失」に対する償いは極めて低い。京都訴訟も賠償額の増額を求め大阪高裁で控訴審が続いている。

 この日集まった避難者は「同窓会があったらきっと来る」と口にする。その声に、奥森さんは「新たな場をつくりましょう」と応えた。

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