2019年05月17日 1575号

【未来への責任(273)「新しい時代」 開くのは誰か】

 4月30日、明仁天皇が退位し、翌5月1日、徳仁天皇が即位した。「平成」という時代が終わり、「令和」という「新しい時代」が始まったと言われている。本当にそうか?

 明仁前天皇は「良い天皇」であったとの評価が高い。戦没者への慰霊を続けた。そのためサイパン、フィリピン、阿智村にまで足を運んだ。アジア太平洋戦争末期、本土の「捨て石」にされた沖縄を11回も訪問し、犠牲者・遺族を慰め、県民との交流を重ねた。震災・水害などの現地には時を置かずに訪ね、被災者に寄り添い、励ました。

 しかし、空襲被害者補償立法はいまだ実現しておらず、他方、戦争法制は着実に整備された。辺野古の海は今日も土砂で埋め立てられ、沖縄県民の民意は踏みにじられ続けている。そして、2011年3月11日に出された福島原発事故の原子力緊急事態宣言は今も解除されないまま、「復興オリンピック」の名のもとに被害者は切り捨てられている。これが現実だ。

 前記のことに明仁天皇は何の責任も負わない。象徴であって、政治的権能を持たないのであるから当然である。では、明仁天皇は何のために戦没者慰霊を続け、被災地訪問等を欠かさなかったのであろうか?

 明仁天皇の父・裕仁天皇は、大日本帝国憲法の下で即位した天皇であった。彼は、「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる“現人神”(あらひとがみ)として崇(あが)められ、敗戦後に「人間天皇」に転身し(1946年1月1日)、さらに現日本国憲法で「象徴」となった。ただ、戦前・戦後を通して彼は天皇のままであった。しかし、明仁天皇は違った。彼は日本国憲法下で即位する初めての天皇として、「象徴天皇」の地位、内実を自ら模索し、確立していく作業を引き受けなければならなかった。そのために国事行為とは別に、「公的行為」として前述のような取り組みを重ねたのである。そして、それは多くの国民から支持を得た。明仁天皇の「時代」に象徴天皇制は「揺るぎないもの」となった。

 しかし、政治的現実は何も変わらず、私たちの前に課題は残されたままである。それを解決すること抜きに「新しい時代」の幕をあげることなどできない。

 3月1日、韓国は三・一独立運動100年を迎えた。記念式典での文在寅(ムンジェイン)大統領演説は、次のようなフレーズで始まった―「あの日、私たちは王朝と植民地の民から、共和国の国民に生まれ変わりました。独立と解放を超え、民主共和国のための偉大な旅を始めました」。三・一運動は、日帝からの独立をめざすとともに、人民主権確立のための運動であった。

 「大韓民国臨時憲章」は「大韓民国は民主共和制とすること」と規定した。以来100年、韓国民衆は「民が主人公」との理念に基づき実践を重ねてきた。4・19学生革命、5・18光州(クァンジュ)民主化闘争、6月民衆抗争、そして、ろうそく革命。彼らは自らの運動で独裁を退け、民主化を進めてきた。

 「新しい時代」はそのようにして切り開くものだ。韓国民衆はそう教えている。

(強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク 矢野秀喜)

ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS