2019年08月16・23日 1588号

【非国民がやってきた!(312)国民主義の賞味期限(8)】

 韓国・光州出身の李泳采(恵泉女学園大学教授)は、日本の植民地主義を韓国ナショナリズムとの関係で再定義しようとします。

 「米国への従属の下で形成された戦後日本の特殊なアイデンティティがもしナショナリズムであるとすれば、植民地支配の意識は解体されないまま、朝鮮・韓国差別という意識として存在している。韓国の場合は、逆に、日本の植民地支配から脱却することを目指して、その時代を否定することから自分のアイデンティティを作ろうとしたと思います。しかし、朴正熙軍事政権になって新しく強調していた上からのナショナリズムは、日本の植民地時代の枠組みをそのまま復活させた『維新体制』の成立のためのものでした。韓国では、今回のキャンドル市民革命でその『維新体制』が幕を閉じ、植民地支配体制とその遺産を壊そうとする動きが出ていると思います。日本軍慰安婦問題や徴用工の問題に韓国社会が敏感になっているのは、その延長線上にあるといえます。」

 それゆえ、李は、例えば「1968年」の社会運動をめぐる日本の議論に違和感を繰り返し表明します。そこでは戦後の民主主義の支配構造を問い直す闘いがなされたとはいえ、植民地支配問題が抜け落ちているのではないかというのです。

 内海愛子は、李の問題提起に応答して、1960年代の日本知識人によるアジアへの注目を解説し、1962年の日本朝鮮研究所や、1973年のアジア太平洋資料センターの設立、さらには1990年のアジア人権基金の立ち上げを想起しています。

 1968年についても、華青闘告発を踏まえた日本社会の一定の反省や、東アジア反日武装戦線という特異な形態の運動はありました。1990年代の戦後補償運動においては、アジアに対する侵略と植民地支配が中心的課題となり、日本社会はそれなりにこれに取り組みました。歴史研究はもとより、政治学でも法学でも東アジアに視線を送り、そこにおける日本植民地支配の歴史と、今日に至る影響を研究する課題への取り組みも続いています。

 にもかかわらず、そこには大きな限界があることも否めません。

 第1に、一部の研究者や戦後補償運動において鋭い問題意識からの研究や活動がみられるものの、それはごく一部にとどまり、日本社会の総体としては無自覚・無反省こそが一般的です。1990年代後半の教科書問題以後は開き直りのナショナリズムと排外主義の日本になっています。

 第2に、2018年に「1968年」をめぐる回顧がなされた際に、やはりアジア抜きの日本国家論、日本社会論が圧倒的に焦点化されたといわざるを得ません。

 第3に、李が指摘するように「日本の植民地を終わらせることができず、分断のまま日本の植民地時代が続いている状況」に理解が及んでいません。

 2018年の南北会談と米朝会談を受けて、李は次のように論じます。

 「しかしいま、ようやく朝鮮戦争の終結や平和条約締結の話が現実的に出るようになりました。朝鮮戦争の終結、そして平和条約の締結により、朝鮮半島の統一まではいかなくても、たとえば、日朝国交正常化が実現することは、日本による朝鮮半島に対する植民地遺産をようやく清算できることを意味します。朝鮮半島の分断線の設定や、朝鮮戦争の背景、そして戦後の不正常な日朝関係のなかに、日本の植民地支配の影響があることを考慮するならば、なぜ日本が朝鮮半島の平和体制に向けて積極的に向き合うべきなのか、なぜそのような役割に日本人の責任があるのかも、理解できると思います。しかし、38度線が日本の近現代史の延長戦として理解できていない現状では、そうしたことへの想像力があまりにも欠けてしまっており、それが問題かなと思っています。」
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