2019年09月06日 1590号

【非国民がやってきた!(313)国民主義の賞味期限(9)】

 鄭栄桓と李泳采の問題提起を受けて、政治学者の中野晃一(上智大学教授)は、戦後日本の国民国家に戦前との連続性と、植民地喪失との間の空隙を埋めることがないままだったことを確認したうえで、次のように述べます。

 「実際、私自身も集団的自衛権問題、安倍政権に対する反対運動の中で、ナショナリズムを一切ふまえない形で、日本において抵抗運動や民主化運動は可能なのか、という問題意識を持っています。安倍や、戦前の日本の植民地支配についてはイヤだという。しかしその私たちが拠って立つというところはどこにあるのかというと、国家権力の暴走を抑えなければいけないという時に、自分たちが意識する国民や国家の在り方がどこなのかというのがとても難しい。現実問題として、後退を続けている感じはすごくあります。」

 市民運動におけるナショナリズムの位置づけについて、鄭も李も中野も同じ問いを繰り返し問い直し、突破口を切り開こうとします。しかし、次の一歩への手掛かりとして東アジアの連帯や、グローバリズムの現状を見据えた運動という以外に具体的な突破口は見えてきません。国際政治の現状と日本が置かれた歴史的かつ地政学的位置から言って、安直に突破口を語ることができないのが現状だからでしょう。中野は次のように戸惑いを表明しています。

 「国家という暴力装置を放置して争わないことにはそれはできない。ただ、それを取りに行く以上は、一定程度のなんらかのナショナリズムを段階として経ざるを得ないというのはある。私はやはりそこは抵抗があるので、憲法ナショナリズムみたいなものですら抵抗があるのです。ただ、そういうことを言う人が出てくるのは理解できる。それをやらないで、一気に国家を乗り越えたような平和や政治がありえるかというと、たぶん無理なのではないかなというところがありますね。」

 ナショナリズムとグローバリズムの相克は新しいテーマではありません。近現代日本に常にまとわりついてきた古典的なテーマです。ただ、その現象形態は時代ごとに時期ごとに変動してきたといえるでしょう。

 東アジアに平和を生み出すために、市民社会の側から歴史と現在を考える4人の論者の討論は、国民主義の賞味期限がすでに切れているのに、いまなおゾンビのごとく生き延びて日本を支配している現実をいかに乗り越えるかという問題意識の重要性を再確認させてくれます。

 「主権者として、国民としての特権を持つ人たちは現に存在する」という鄭は、日本国憲法第一条における天皇と国民の野合の謎を見事に突いています。

 「朝鮮半島における平和体制の構築の後、東アジアは集団安全保障体制に変えていくことです」という李は、例えば「市民たちによるもうひとつの六カ国市民協議」を発案します。「六カ国市民協議」という構想自体が国民国家の枠組みを前提としている点で制約はありますが、この発想をさらに押し広めていくべきでしょう。

 「重層的なアイデンティティ、つまりアイデンティティを越えた連帯によって、われわれが政治、暴力の問題をどう管理することができるのか」という中野は、問題の本質を端的に要約していますが、同時にそれは最初の問いに戻ったに過ぎないとも言えます。

 換言すれば、常に原点に立ち戻りながら、同じ道を異なるステップで何度も歩み直す以外に、突破口が見えてくることはないということです。

 近代国民国家というプロジェクトの厄介な特質が、日本という磁場で極度に先鋭に表現されている問題だからでしょう。
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